キューバ再革命−墓穴を掘れるか(改版1)

新聞やテレビで見聞きする限りでは、キューバが社会理念から生まれた管理社会から大衆の生活水準の向上を目指した社会に移行しようとしているように見える。いまさら、なぜ移行しようとしているのか、移行(しようと)せざるを得ないのか?問う意味があるとは思えないが、どこまでどのように移行しょうようとしているのか、移行できるのかが気になる。

歴史でしか知らないにしてもキューバ革命は希望だった。ゲバラはアイドルだった。革命後の政治がアイドルを殺した。殺されたアイドルは年をとらずにアイドルとして残っているが、殺した政治は閉塞し破綻寸前まで追い込まれた。
知ったときは希望だった革命が、疑念に覆われて失望に変わってしまった。希望が大きかっただけに失望も大きかった。ついこのあいだまで、たまに聞こえてくるニュースなど気にかけることもなくなった。聞こえてくる改革、ああだのこのこうだの言ったところで、問題を生み出している社会層が墓穴を掘ってまで、本質的なところをどうこうする意思も能力もないのではないか。似たような社会変動のたびに落胆してきたこともあって、過分な期待はすまいと覚めた目で見ている。

革命によって、社会の底辺にいた人たちの生活水準は上がったし、教育や医療など大きな成果をあげた。賞賛されるべきことなのだが、それは底辺が当たり前だったところから、ちょっと離陸したところまでだったように見える。離陸すれば、離陸したところが当たり前になって、そこからさらなる上昇が求められる。無限の上昇などないが、目を北に向ければ、まだまだ登り続けられることを誇示するかのように、はるか上の高度大衆消費社会のショーウィンドウがある。

革命がつくりあげた管理社会は底辺からの離陸には最適な手段だったろうが、継続的な生活水準の向上を可能にする労働生産性の改善には不向きだった。労働生産性の改善には豊になりたいと思う人びとの自由意思による経済活動が欠かせない。革命後の管理社会はその自由意思による経済活動を抑圧してきた。

軍は殺人と破壊を目的とした反社会的な組織で、社会の富を消費することはあっても生産することはない。軍備へのリソースの投入が、市井の人々の生活水準を向上するために必要な生産性向上に充当し得るリソースを削減し、社会を経済的に奇形化する。管理社会における官僚などの管理者層も軍と同じように富の消費者であって生産者ではない。管理社会は、富の生産に直接携わる被管理者層が自由に考え行動することを抑圧して、社会(人びと)を精神的に奇形化する。キューバは軍備による経済の奇形化と人びとの精神の奇形化の両方の問題を抱えている。

管理社会、いってみれば上層部から中間階層、そして人々の日常の労働から消費生活まで、管理体系がすべてを管理している。道路を走っている乗用車やトラック、その脇を走っているバイクに自転車、歩道を歩いている人たち、そのすべてにいつどこでどのように走るのか止るのか、歩くのか待つのか、管理者が指示して成り立つとしている。そんなもの、閉塞しない訳がない。極端にいえば絵空事の社会でしかない。

管理社会で管理する側にいる人たちが、移行した社会でもなんらかのかたちで優位な立場にたとうとする。人情だろう。段階的な自由化もその一手段でしかないのではないか。自宅のなかでは自由に歩いていいから、左右二軒隣までなら、町内までなら、隣町までならという人びとの経済、社会生活を段階的に、従来からの管理から「管理された自由」への移行で閉塞状態を解決できるとは思えない。

管理社会でいい立場にい続けた社会層が提唱し主導する改革。自分たちの墓穴を掘ってまで人びとの自由な精神活動の基づいた社会を求める勇気があるのか?革命の希望を殺した政治でしかあり得なかった政治権力の下で、キューバがまた希望の星になりえるのか?それとも旧社会主義国で繰り返されてきた失望の再現になるのか?
不幸にして後者の可能性が高いだろうと思いながら、支配者層のプロパガンダのお先棒を担いだマスコミや学者先生の話の向こう側を覗きこんででも、なにが起きていくのか見ていきたい。
2016/11/20