雇用契約のない社会(改版1)

電通の女性社員の自殺の記事をみて、雇用契約のない日本の会社のありようを思い出した。電通にはアメリカ企業のような雇用契約があるのかもしれないが、日本をおしなべてみれば雇用契約の考えがない、あるいは希薄といっていいだろう。雇用契約もない社会で、仕事が直接の原因で自殺。起こるべきして起きたとしか思えない。今回が初めてでもなし、毎週のようにどこかで起きているだろう。東大出の若い女性の自殺だったこともあってか、マスコミが報道した。ただその報道、話題提供にはなっても、自殺と言う最悪の事態を招いた根っこのところにまで踏み込んだものにはならない。

八十六年にアメリカの制御機器メーカに転職して、はじめて雇用契約というものがあることを知った。七十二年に学校を出て入社した一部上場の機械メーカからは採用通知だけだった。アメリカの会社二社にはしっかりした雇用契約が、ドイツの会社でも、それなりに雇用契約があった。日本―アメリカードイツーアメリカと渡り歩いて、二〇〇〇年に、久しぶりに日本の会社に戻る話が進んでいた。

日本の会社のオーナー社長から倒産状態にあるアメリカの子会社の立て直しを頼まれたが、雇用条件は社長の口約束だけで採用通知しかでてこなかった。どのような条件で、どのような勤務体系で給与体系なのか何の説明もない。アメリカの会社と似たような雇用契約をと思って、総務担当の役員に「雇用契約はないのですか?」って訊いたら、「えっ、こようけいやく?」一瞬ポカンとした顔をして「なんですかそれ?」って訊きなおされた。
何を訊いても社内規定に準じて……という返事しか返ってこなかった。勤務地が日本ではなく、ボストンだったこともあって、労働条件や給与体系に付帯条件など前例がないというだけでなく、ろくになにも考えたこともなかったというのが正直なところだろう。
社内規定はいいが、そんなもの会社の都合でいつでも好きなように変えられる。たとえ双方が合意した雇用契約があったところで、契約内容は勝手に変えられた社内規定に従う。常識で考えて、そんなものが契約であろうはずがない。

日本の会社では一従業員として雇うだけで、雇った後に何をさせるかは、社内規定に準じてという体裁の下、雇用主の自由裁量にまかされる。法的にどのような規定があるにせよ、勤労者の日常生活の大きな部分を占める労働に関して雇用者と被雇用者が対等の立場で合意する契約という考えがない。

天涯孤独の人でもなければ、子供はいなくても親はいる。親が年をとれば、子供が就学年齢に達すれば、私生活においても気にかけなければならないことが多くなる。仕事を大事にするのもいいが、私生活をなげうっての滅私奉公という時代ではない。従業員の私生活をろくに考慮もしないで、出てくる人事異動や業務命令には戦時中の赤紙に似たところがある。赤紙を拒否すれば犯罪者として収監されたが、辞令を拒否すれば懲戒解雇になる。活動家を追い出す手段としてさんざん使われてきたし、今も解雇を目的とした人事異動が続いている。

国内での転勤や海外への駐在も、関連企業へ出向もすべて雇用者の一存で決定されるから、勤労者としての生活は、住むところも含めて私生活のさまざまな面で自分で決める自由を一時的にせよ留保したものとなる。
留保までならまだしも、職場でのストレスから躁鬱になる人もいれば、自殺する人までいる。ブラック企業が平然と成り立つ社会で過労死やイジメもなくならない。なにか話題になることであればマスコミが取り上げるが、個々の事象を伝えるまでで終わる。 雇用者と被雇用者が対等の立場で合意して結ばれる雇用契約のない社会を当たり前としている社会のひずみを問題とする様子はない。話題性のニュースまでで、宣伝広告主である民間企業の顔色をみてしか存在しえないマスコミの限界なのかと思ってしまう。

正規雇用者には、たとえ名目的にせよ雇用契約は?といえないこともないだろうが、非正規労働者や請負事業者にはそんなものすらない。誰も彼もを、仕事の場だけでなく、私生活の大枠までもを会社の都合で規制したあげくに自殺者までだして、それでも利益が十分でないという。法人税の低減からさまざまな優遇措置をもってしても、利益を求めて海外市場に投資する。
ここまでくると、もう政府も行政も民間企業の経営者も、健全な社会の基盤を創って行く経営能力があるのかという疑問すら湧いてこない。なんでもかんでも契約を振り回せば、人間関係がぎくしゃくするだけでなく、訴訟社会に陥りかねない。それでも雇用契約の考えがなければ、開けた職場もなければ、民主的な社会もありえない。
2017/1/1