省エネから省官へ(改版1)

今に始まったことではないが、最近とみに新聞を読むのがつらい。読んでいて、そりゃないと腹が立っているうちはまだよかった。 もう、ただただあきれるばかりで、腹が立つことも少なくなった。世界第三位の経済規模を誇る、民主主義の国ということになってはいるが、最低限の誇りすら失って、制度疲労が限界にまで進んだ社会に見える。
国家としての社会を運営しているはずの官僚組織にいたっては、古今東西存在しえるあらゆる不正とごまかしに嘘、自分たちも含めた特定の利権の采配に汲々としているようにしか見えない。もう国民の公僕という言葉を聞くこともなくなった。調べたわけではないが、さしもの文部科学省も、はずかしくて社会科の教科書に「公僕」とは載せられないのではないか。

七十年代の初頭、地方からの廉価な労働力「金の卵」の供給が枯渇し始めて高度成長が終わった。二度にわたるオイルショックもあってインフレが収まらない。労働賃金の上昇を抑えたかったが、抑えようにも抑えきれない。どうにも打つ手がなくなって、人件費の高騰を解消できないまでも軽減しようと「省力化」を言い出した。「省力化」、なにも特別なことではない。人間の生産性を向上しようという、太古の昔から続いてきた視点をもう一度だった。ただ出てきたのは、利益の源泉を労働者の生産性の向上に求める「省力化」ではなく、人員削減の「省人化」だった。会社の掛け声にこだまするかのように御用組合が同じことを言い出して、どっちがどっちなのかわからなくなった。サービス残業など当たり前、今日の感覚でいえば日本中ブラックだらけだった。

七十年代、働いていた工作機械メーカでは「二台持ち」「三台持ち」という言葉が使われ始めた。一台のタレット旋盤を作業者がまるで愛機のように使ってきたのを、一人で二台、三台使えるように、使うようにしようという試みだった。それを可能にすべく自動化機能を追加して、旋盤の配置や加工物の流れも工夫して、一つひとつ実現していった。大雑把に言えば、一人で二人分、三人分の仕事をして一人分に毛の生えた程度上乗せされた給料をもらうことになった。

官僚制度の問題の根幹を覆い隠す枝葉を落としてみれば、国民の公僕に過ぎないはずの官僚どもの悪知恵が目につく。官僚(行政府)は議会(司法府)が決定したこと(法)を愚直に遂行するのが本来の姿で、議会が決めたことを官僚が勝手に変えることも解釈することも許されない。もしそんなことをすれば、議会が何を決めたところで、何が行われるかは官僚の胸先三寸になってしまう。

法を愚直に施行することに制限すれば、官僚が関わる不正(疑惑)を、すべてではないにしても抑えられる。妙に頭のついている官僚という人間が悪知恵を働かせるところから不正が生まれる。頭を使って法を解釈する官僚がいる限り不正はなくならない。不正をなくすには官僚をいなくすればいい。小学生が言い出しそうな極論だが、本来官僚はロボットのように決められたことを決められたようにするだけの存在のはず。であれば、官僚をロボットで置き換えればいいということにならないか。そうすれば、法の勝手な解釈も咀嚼も恣意的な運用もごまかしも嘘も、ましてや忖度など生まれようがない。

七十年代の工作機械メーカとは技術的にも社会的環境も大きく違う今日日、コンピュータによる自立的な処理を実現する環境は整っている。利権の采配とごまかしと隠し立て、うそしか言わない官僚を解雇して、コンピュータによる愚直な施行に変更していったほうが、人件費も、人が働く環境を整える環境(立派な庁舎)のコストも下がる。月曜から金曜の九時から五時半や七時、土曜は、日曜祭日は、超過勤務は、人が介在することで発生する制約も解消できる。一年三百六十五日、一日二十四時間働き続けるコンピュータは嘘をつかないし疲れを知らない。

議会は愚直に規則通りしか施行できないコンピュータシステム(行政組織)で施行できる法しか作れない。作ったところで施行できないか、施行の段階で官僚による解釈でどうにでも使いようのある都合のいい法は作れない。法と法との整合性を保たなければ施行できない。愚直にコンピュータで施行できない法律は作ってはならないし、整合性のないものを官僚の知恵をかりて――人任せにはできないと、多少は責任感もでてくる。
経験に基づいた知的判断ができる人が介在しなければ、まともに法を施行できないという雑音がでてくるだろうが、煩雑な作業を整理して、定型化業務に再構築してきたのが現代社会の歴史に他ならない。定型化した業務の遂行はコンピュータシステムがもっとも得意とするところだろう。できることから始めて一つひとつ人の関与を減らしていけばいい。
新しい法律を施行するにはコンピュータシステムを更新しなければならない。ソフトウェアの更新で施行できない――他の法律と整合性のない法律は作れない。憲法九条のもとで自衛隊はありえない。一つ一つ作っていって簡単至極、公明正大な行政の見本ができあがる。

ここでいっているコンピュータシステムの分かりやすい例が自動改札で、導入されたとたんキセルなどの不正乗車ができなくなった。愚直に決められたことを決められたように施行するコンピュータシステム。今話題のAIなんかいらない。製造業や金融業で培われた制御技術のちょっとした応用で十分システムを構築できる。
ろくなことしかしない官僚などいなくしてしまった方が問題が起きる可能性が少ないが、何をしても問題や課題は必ず残る。何かすれば気がつかなかった課題に遭遇する。課題に遭遇したら、一つひとつ改善していけばいい、何も特別なことではない。官僚という存在悪に頼っているよりよほどまっとうな社会ができあがる。

こんなシステムができあがってくれば、日本は世界でという以上に歴史上もっとも透明性の高い行政機関を作れる。日本が世界に誇る行政システム。世界中が導入を検討しなければならないシステムができあがる。検討しない国は官僚や政治屋の不正をただそうとしない国ということになる。システムが公明正大な政府とそうでない政府を見分けるリトマス試験紙の役まで果たす。
七十年代に「省力」と「省人化」、二十世紀末に「省エネ」、二十一世紀になって「省官」。技術的な条件も公明正大を求める社会的な条件も整っている。できない理由やらなんやら……立派な御託をならべて反対するのは不正で禄を食んでいる政治屋と官僚と利権屋だけだろう。
2017/8/13