知らぬが仏(改版1)

武者小路実篤は、第二次大戦がどのようなものだったのか、知ろうとすれば知ることができたはずなのに、知ろうとはしなかった。そして戦争が終わったら、「だまされていた」と言ってのけた。それを知った加藤周一が、『加藤周―戦後を語る』のかなに「だまされる」という一節をもうけて、それは、だまされたかったらだまされたのだと非難している。ちょっと長いが「だまされる」の一部を引用する。

『前の戦争が終わったとき、日本の多くの人びとは「だまされていた」「知らなかった」と言った。しかしそれはだまされた方が楽だったからでしょう。だまされたかったからだまされたんです。有名な作家だけど、武者小路実篤という人は戦争が負けたあとで「私はだまされていた、こういうとことは知らなかった」と言いました。日本人が戦争で何をやったか、アジアで何をやったか、知らなかったと。「だまされていた」のは本当でしょう。しかし、何とかだまされまいとして、あらゆる努力をかたむけたけれども、それでもだまされたんじゃないでしょう。だまされていた方が気持ちがいいのですね。戦争責任がないということになるわけだから。
まあ、私の住んでいる町の八百屋のおかみさんが「だまされていた」と言っても、私はその言葉を受け入れます。おかみさんに事実を調べろと言ったって、そう簡単に調べられないですよ。第一、八百屋は忙しいんだから。武者小路実篤みたいにのんびりと、小説書いているのとは違う。戦争がはじまるまで、文献はいくらだってあったじゃないですか。日本に入ってきたでしょう。 戦争中でさえ、中立国だったスイスのラジオを聴くことができたでしょう。どうしてスイスのラジオを大作家の武者小路実篤は聴かなかったか。八百屋のおかみさんに「なぜ『ノイエ・チューリッヒ・ツァイトゥング』に書いてあるのにあなたは読まないのか」って言っても、しょうがないでしょう。ドイツ語知らないんだから。だけど、武者小路実篤はちょっと違う。彼は日本国民の倫理的指導者であると見なされていた有名な作家です。それは読めませんということにならない。天下に公表された情報で日本に入ってきているんですから。』

二十一世紀にもなって、戦時中までとは状況が大きく違う。ラジオやテレビを通して海外を知るという時代でもなくなった。あまりに海外が日常生活のなかに入り込んで、何語からきたのかわからないカタカナが氾濫している。それは情報としての海外だけでなく、身近になった海外旅行というようなことでもない。海外との仕切り線がずーっと沖に引いてしまったとでもいうのか、日本というものの縁があまりに遠くなって滲んで見えなくなってしまった。内にいるつもりだったのに、気がついたら、内というより海外といったほうがあっているなどというのが日常になってしまった。
そんな日常が特別な人の特別なケースでもなくなって、それこそ加藤周一のいう八百屋のおかみさんがアメリカ人や中国人にインドやドイツからの人と日常的に接するのが特別なことではなくなった。孫の小学校にはフィリピンやタイとのハーフの子もいれば、どう見ても日本人には見えない日系ブラジル人の子供もいるなどということが日常になった。

ここまでくると、たとえ日本のマスコミが報道しなかったとしても、その気になれば、たとえおぼろげにしても、日本や日本と関係の深い国々で何が起きているのか、たとえばタイの軍事クーデターや中国の新幹線の事故処理を知りえる人たちが増えて、多くの人たちが、加藤周一に「知らなかったのはしょうがない」といってもらえる八百屋のおかみさんではなくなった。知りえる環境というのか条件からすれば、ほとんどの日本人が戦時中の武者小路実篤を超えたところにいる。

憲法九条にしても、原発事故や再稼動も沖縄の米軍基地もその気になって情報をあされば、それなりに実情を知り得る。ただ情報は知りたいと思う人には情報だが、知ろうとしない人にとっては情報でもなんでもない。インターネットで世界中の情報を知りえるにしても、知ろうとしなければ知りえない。知らないことで日常生活に支障がなければ、知っていることで何かいいことでもなければ労をとってまで知ろうとはしない。多くの人が知りたいと思うのは、今日のスーパーの生卵のセールや靴のバーゲン、こんどのボーナスで、それこそ巷の日常生活そのもの。戦時中の八百屋のおかみさんの日常生活と何も変わらない。

知ろうとしないで、現状に流されて、いざなにか起こったら、「しらなかった」「だまされていた」、それも武者小路実篤のように一人でもなし、みんながみんなして、「しらなかった」「だまされていた」という「だまされる」ことで、民主主義といいながら、だれも責任を負うことのない社会ができあがる。

何にしても知りことから始まる。知って理解して考えて判断することろから社会人として存在し、社会が成り立って、そこに責任が生じる。ただ多くの人たちにとっては、知ったところでどうなるわけでもなし、面倒なことは他人に任せて、上手にだまされていれば、気楽でいいというのが豊かになった消費社会の現実ということなのだろう。
幸いなことに、日本では事情がどうであれ、誰も「仏」を非難するようなことはない。戦犯でも仏として神社に祭ってもらえる。ましてや巷の「知らぬが仏」の一私人、安心してだまされていられる。
2017/11/12