誤審を正せる社会に(改版1)

打高投低なのか今年の甲子園は乱打戦が多くて、緊張した投手戦がほとんどなかった。そこに誤審がちょっと緊張した場面をつくってくれた。三塁線をやぶったツーベースは間違いないヒットをファールと判定した。打球を避けるために飛びのいた塁審からは打球が見えなかったのだろうが、キャッチャーもベンチにいる選手も一塁側から見ている観客もヒットであることを疑う人はいない。実況放送しているアナウンサーにも解説者にもヒットにしかみえない。普通の視力でVTRをみれば、誰がみてもヒットしか 見えない。
それでも、アナウンサーからも解説者からも、たとえ可能性にしても塁審の誤審という言葉はでてこない。誤審を誤審といってはいけない文化がある。分かっていて言えないバツの悪さからなのか、言わないことのいいわけのような口ぶりで、解説者がいった。「プロ野球じゃないんですから、高校野球ですから審判の判断が……」人間、言わなければならないことを言えないと、言わなくてもいいことを言ってしまう動物らしい。

解説者がいうように、高校野球はプロ野球とは違う。高校球児と美化する気はさらさらないが、野球も教育の一環であるというのなら、間違いを認めずに、それを指摘することさえ許さずに、間違い続ける教育にどれほどの意味があるのかという話になる。解説者のゴタク、自分たちが所属している社会の文化が、戦前からのあってはならない文化を引きずったまま、一向に開けた社会になっていないことを誇りに思っている響きがあった。

間違いを犯すことのない人も組織もない。いくら注意して万全の体制でのぞんでも間違いは起きる。間違いが起きるのはしょうがない。問題は起きてしまった間違いをどうするかでしかないのだが、民主的でない人や組織では間違いを間違いと認めずに間違いが正しいと固執する。してはならないことはいくらもあるが、自分の間違いを、あるいはその可能性を認めようとしないのは、してはならない最たるものだろう。
こう言っては失礼だろうが、高校野球の判定ひとつに小人の情けなさがにじみ出ている。間違いを認めれば、自分たちの権威どころか存在を否定することになるのではないかと恐れているかのように見える。そこからは、事実と向き合った反省もなければ、間違いが起きてしまった条件を改善して少しでも間違いが起きないようにする具体的な考えもでてこない。いいところ、今後そのようなことのないように注意しましょうで終わる。そして同じような間違いを繰り返して、間違いが起きるたびに間違いに固執する乗り越えなければならない文化が生きつづける。

主催者の日本高等学校野球連盟と朝日新聞にNHKまで入って、そろいもそろって誤審かもしれない場合に誤審かどうかチェックすることさえも拒否して、審判という権威に絶対服従の文化を正しいあるべき姿とでも考えているのか。そこには、権威や権力、日常生活でいえば、偉い人――先生や上司、政治家やお役人におまわりさんの言うことに疑問をもつこともなくひれ伏す臣民教育しか存在しえないのではないか。二十一世紀にもなって、学校教育はいまだに、自分で知り、考えて判断する意識も能力ももたない、ただ扱い易い人々の群れをつくることを目的とでもしているのか。

高校野球では、なぜ誤審の可能性を指摘してはならないのか?納得のいく説明があるとは思えない。誤審ではないかという指摘が間違いであれば、間違いであることを説明する責任が「おとなの社会」にある。
いくら間違っても、その間違いを指摘されることもない社会層と、間違いを可能性としてですら指摘することすら許されない社会層があっていいという考えのものでは、まっとうな教育などありえないし、そんな教育を受けてきた次の世代が民主的な社会をなど望むべくもない。

学校教育がどうのという話になると、個性の尊重だとか、考える力だとかたいそうな能書きをたれてはいるが、高校野球を見るかぎり、お役人も先生も新聞も含めたマスメディアも臣民教育から一歩もでていないとしか思えない。文科省もその配下の関係組織もNHKも朝日新聞も、解説者の言い草が正しいと思わないまでも認める人たちも、次の世代に何を残さなければならないのか、考えたほうがいい。

ここで教育の現場にたつ先生方は自家撞着に陥る可能性がある。そりゃないでしょうというクレームというのか再検討を要求するのが当たり前の社会になったらどうなるか。先生にしてみれば、個々の実情にあった教育をし易くなって、やりがいのある教育現場になるだろう。しかし、そこで生徒は何も考えることなくおとなしく先生のいうことを「はいはい」とは聞かない。先生が上司や役人にクレームをつけるのと同じように、生徒からそれこそ毎日のように、なんでですかという質問をうけて、ロジックで生徒に説明して説得しなきゃならなくなる。「説明と納得」が「命令と服従」にとって代わる世界で、どれほどの先生がまともな授業をしえるのか、先生の本来あるべき能力が問われる。
納得のいく説明をできない、能力の足りない先生は、伝家の宝刀――内申書をかざして「命令と服従」を求めるだろう。その先生のような人たちと組織が階層をなして、誤審を問わない高校野球が続いている。
興味のある方は、Googleで「高校野球 誤審」とでも入力してサーチしてみればいい。なにがなんでもそりゃないという「歴史的誤審」のリストがでてくる。

ことは高校野球の誤審とその対策では終わらない。それは明日の社会のありようを規定する考えの欠陥が、ひとつの例として露見しているものだから。
2017/11/19