解ってもらえなきゃ(改版1)

解ってもらえないのを当たり前と思っているだけでなく、その当たり前の責任の多くが自分にあることに気がつかないか、気がついてもそれさえも当たり前と思っている。解ってもらう努力もせずに、解ってもらえないのは、相手の能力と意識の問題だと思っているから、いつまでたっても解ってもらえない。あまりに当たり前で、いまさら何をという気がするが、そのあたり前のことを整理してみるのも無駄ではないだろう。

どんなに優れた考えであっても、その考えが存在することを知ってもらえなければ、人々に解ってもらえる、もらえないという前に、人々にとっては、その考えが存在しないのと何も変わらない。
極端な例をあげればわかりやすい。ここの一人の作家がいるとしよう。世に問うべき著作がいくらもあるのだが、発表せずに私蔵していたら、社会的には著作は存在しない。それは画家にいえることで、描いた絵を私蔵しているか限り、作品は社会的には存在しない。

社会的な評価には興味がない、自分にとってだけの作家も画家もいるだろうが、どちらも社会的には作家でもなければ画家でもない。ちょっと質は違うが似たようなことが経済学者や哲学者、社会学者や思想家にも、さらには市井の人たちにもいえる。どんなに、何を考えたところで、したところで自分以外の人にそれを解ってもらえなければ、社会的には何もしていないのと同じで、社会的には存在しないのと何もかわらない。

多くの開明的な文化人や知識人、研究者や学者が社会や人間のありようをさまざまな視点で分析して、今の社会の問題点を明確にして、次の社会への進化を提案してきた。ところが、分析し提案している方々の主張なり提案なりが市井の人々に理解されているようには、少なくとも社会を変え始めるレベルまでは理解されていないように見える。もし、この見えるというのが間違っている、社会は変わり始めているというのでれば、多くの社会問題の解決が始まっているはずだが、どこをどうみてもそうは思えない。社会の質量が大きくて、変わり始めているのを実感できるまでに時間がかかるということでしかないかもしれないが、兆候すらみえないなかで、始まっているといわれても、はい、そうですよねって、世辞にもいえない。

文化人や知識人などの賢人たちの考えを理解しえない市井の人々に理解しえない責任があるのか、それとも賢人たちのほうに責任があるのか。どちらに、理解しえないものを理解しえるようにする能力があるのかと問えば、それは賢人たちにあるといわざるを得ない。社会の進化の方向を提示する責任は、歴史が示すように一般大衆にではなく、歴史を見定め、次の社会を思い浮かべる能力のある賢人たちにある。

日本において、賢人たちがどれほど一般大衆が理解しえる話をしているのか、一般大衆の日常生活に根ざした興味や関心を呼びおこす話をしているのか。一般大衆の日常生活に根ざした視点や志向、さらに使用する言葉まで含めて、一般大衆が違和感のない、よくいう「胸にすとんと落ちる」話をする努力をしているのか。努力をしなければと思っている賢人がどれほどいるのか。そもそもそんな努力が必要であることを、どれほど感じているのかということにすら疑問がある。

日が出て働き、日が落ちて家路につく人々の生活は天動説そのもので、地動説は日常生活には関係のない、知識としては正しいというだけでしかない。もし社会を変革しようと思うのなら、一般大衆の日常のロジックで、日常の言葉で語らなければ、理解してもらえない。だれが考えても、あまりに当たり前。明治維新でもあるまいし、いまだに先進ヨーロッパ直輸入のような専門用語とカタカナをちりばめた高名な理論を弄り回して、市井の人々には理解しえない話を繰り返す文化人や研究者の精神構造はどこからくるのか。理解してもらえなければ、社会的に存在しない作家や画家と、少なくとも社会変革という視点では、賢人も高名な理論も存在しないのと何も変わらない。

社会において自分たちの存在がないことに平然としていられる人たちは、巷の人たちからすれば、よくて社会的な奇形か空気のように存在感のない、社会的には価値のない、いてもいなくてもどうでも人たちということになる。
2017/12/17