目の前の現実からから理論へ(改版1)

一九五一年に東京の下町で生まれて郊外で育った。七十二年、高専を卒業して機械屋になろうと思って工作機械メーカに就職した。職工見習いとして就職したつもりが、配属されたのは技術研究所の試作設計部署だった。開発設計という部署名が示すように、そこはそれまでの機械とは一線を画して違う、新しい機械の設計を責務としていた。既存の設計は参考にはしても、その枠を意識的に飛び出ることが要求されていた。そうはいっても高専出の新卒、実務経験どころか技術的な知識と呼べるものもない。先輩の足を引っ張りながら毎日が勉強だった。

技術(しばし知識も)は、人や社会にとってはニュートラルな存在で、使いようによってはとんでもない災いをもたらす。その典型が軍備で、身近には公害があった。就職して自分が習得していくであろう技術をどのような目的のために使うのか、少なくとも反社会的な用途には使われるようなことのないようにと思っていた。そのためには最低限にしても、しっかりした社会認識を持たなければと、これはと思う本を読み始めた。
高専はいってみれば詰め込み教育の職工養成所で、社会認識をうんぬんする知的環境など望むべくもない。就職してからも持ち合わせの知識はいくつかの歴史上の本から得た表面的なものでしかなかった。しばしこれはと思う本が難しすぎて、入門書に戻ってから読み直すことも多かった。

勤務地は戦前からの工場で、駅を降りて十分もかからない我孫子市我孫子一番地。常磐線の快速電車に乗れば三十分かそこらで上野にでれる。千代田線も開通して交通の便がよくなったこともあって、宅地開発が進んでいた。現場の人たちのほとんどが地元とその先の在の人たちだった。二割程度は兼業農家だったののだろう、田植え休みがあった。なかには土地成金もいて、地方から集まった学卒の管理職の人たちより豊かな消費生活を送っている人もいた。
地元出身の従業員のほとんどには、六十年代末から七十年代の学園紛争など別の世界のできごとでしかないし、地方出身の従業員にとっては残業代が生活費のなくてはならない一部になっていた。それでも高度成長のおかげで環境も生活もよくなって、誰も彼もがマイカーを持って、ゴルフにスキーにが特別なものではなくなっていた。

オイルショックを契機に高度成長は終わったが、社会党を含めた革新系の政党はまだ元気だった。ただ一見元気そうにみえてはいても、足元は傷んでいて、社会党右派の労働組合では、組合活動用語が飛び交っているだけで何もなかった。沖縄が返還され、インフラなど社会資本の充実が急がれていたときに、あきれたことに労働組合が海洋博への団体旅行を積極的に募っていた。個人で行くのを抑える権利など誰にもないが、労働組合が組合としてはありえない。組合が団体旅行を組織するのに反対して、組合大会で委員長と言い合ったが、共産党系の活動家以外には無視された。

工作機械は二台と同じものがないという典型的な多種少量生産で、自動車や家電のように大量生産の流れ作業にはならない。生産性のあげようもなく標準的な作業でも変化に富んでいてた。歴史的に問題とされてきた単調な繰り返し作業は、ないことはないが限られていて、人間性を押しつぶす疎外が問題になることは少ない。戦時中まで機械工場の職工さんを「油虫」と呼んでいたと聞いたことがあるが、どこを探しても「油虫」は見つからない。
会社も仕事も組合活動も何から何までが、書籍から得たわずかな知識に基づいたぼんやりとした社会認識とは説明のしようがないほど違っていた。試作機械の設計で毎日が勉強と技術的なチャレンジに明け暮れる、いってみれば給料もらいながら勉強させていただいているようなもので、「お前は、資本主義社会で搾取される労働者だ」と言われても、歴史的な書物にでてくる搾取され、疎外される労働者だという実感がない。

職場をはなれて日常生活で見聞きすることを含めても、会社が言うように歴史的な書物にでてくる労働者がいるようにはみえない。問題意識をもって、足をはこんで注意深く工場の隅から隅まで見ていっても、仕事からくる労働問題は霧にかすんだ景色のようにぼんやりしていてよく分からない。社会全体のなかでの自社の立場、そのなかでの自分たちのありようをみても、資本対労働者の対立を肌では感じられない。

上部組織のなかでの自分たちの立場からだろうが、労組の幹部は会社との対立をかたちながらに口にはする。決まり文句の対立を口にはしても、賃上げ以外には何をどうするという考えなど微塵もない。そこに二十代半ばの、はねっかえりのような組合活動家たちが、とってつけたような活動用語で騒いでいた。いくら騒いだところでというより、騒げば騒ぐほど、会社側にも工場で働いている職工さんたちの目にも、瑣末な問題をとりあげて、あたかも地球の最後のように騒ぎ立てる問題児のようにしかみえない。

社会保障も整って、生活水準も上がって、ローンにしても自宅とマイカーをもって、一昔前には想像もできない生活になったところに、昔ながらの社会改革か革命運動のような用語とロジック。言っている人たちも馬鹿でもなし、思想や思いと目の前の現実の乖離がどうにもならないほど大きくなっているのに気がついてはいる。気がついてはいても、状況にあった社会変革や組合活動を支える理論がない。時代錯誤(失礼?)の理論にしがみついて陳腐化した活動用語を振り回しているだけだった。

社会民主主義のような社会になっても、資本主義が生み出す問題の症状が緩和されて、見えにくくなくなっただけで、活動家連中が口にしていた資本主義の本質的な問題が解消されたわけではない。見えにくいところで、目の前の社会の現実から何が問題なのか、何がその問題を引き起こしているのかを、なんとかして掴めないかと歴史的な書物をあさっていった。

就職する前に知識としてもっていた社会認識がぼんやりしていたことが幸いした。社会にでる前に社会経験のない状態で学んだ歴史的な社会経済理論から目の前の現実を説明しようとするのではなく、目の前の現実を説明する理論をさがして、あれこれ考えた。歴史的な理論の重要性が薄れたとは思わないが、それ以上に同時代の社会認識へと進んでいった。それは、必然的に昔ながらの、書籍のなかに書かれている労働者階級の一員としてのものとは違う。

素直に状況をみて、どうやって状況に対応するのか、そしてそこから何がその状況を生み出しているのかを想像して、そして状況にどう働きかけるか。現状への異議申し立てではなく、次の社会のありよう――それがたとえ絵に描いた餅にすぎないにしても――を描くきっかけになる考えや思想を求めていった。できることはそれしかなかった。年月を経て年はとったが、それしかないということでは、今も何も変わらない。

どこかから学べる理論には必ず時間的な遅れがある。かつての状況から生まれた理論がそのまま今の、そして将来の状況にも適用できるという保障はない。保証がないだけでなく、しばしミスリードしかねない。学びえる理論を理論とすれば、状況から理論であって、理論から状況ではない。歴史上の思想や考えが、今目の前で起きている、生きている社会を同時代的にみるのを妨げることがある。
2017/12/31