ボランティアを考える(改版1)

日常生活で必要とするサービスのほとんどが行政か民間企業のどちらかによって提供されている。この両者が提供する範囲を超える、あるいは補完するサービスを多くのボランティアの人たちが提供している。災害時など日常をこえた状況下でのサービスの多くがボランティアの人たちの尽力によっている。
企業によっては従業員にボランティア活動に参加することを奨励していて、活発なボランティア活動が成熟した社会の証の感がある。そこからボランティア活動に積極的に参加する人たちが、社会を支える善良な市民のあるべき姿のような雰囲気すら生まれている。

テレビや新聞でボランティアの人たちの活動を見聞きするたびに、腰の重い自分が情けないし、ちょっと恥ずかしい。年はとってもまだ体も動くし、何かのお役に立たなければと思いはするのだが、ええーいと出てゆくのをためらう。出て行ったところで、不慣れな年寄り、足手まといになるだけだろう。善意の、それも行動力のある人たちに混じって、右往左往している自分を想像すると、なかなか思いきってという気になれない。若いときから集団行動が苦手で生理的に受け付けないこともある。そんな斜視にかまえたのが出る幕でもないだろう、と外野から声援をするまでにしている。

そんなところまで、そんなことまでと驚くボランティアの人たちの活躍ぶりには、感動以外に何もないはずなのに、いくつかの点で考えさせられてしまう。そこまで考えることもないのにとは思うのだが、ことによってはというのか、なり行き次第では、自分たちの社会をつくる、いままで以上にしっかりした基盤を作れるかもしれないという希望がある。希望があるだけにその反面――今までとはちょっと違った資本主義というのか、善意の顔をした新手の金儲けの手段にもなりえることを思うと、もろ手を挙げてボランティアというのをためらう。

公園緑化ボランティアを仮定してみる。参加者は近隣の主婦を中心に定年退職後の年配者なのだが、町内会の商店主が組織をまとめている。地域住民に参加を呼びかけるチラシを作ったり、会議室をアレンジしたり、行政との調整もその商店主が中心になってやっている。当初は公園の草木の手入れや、持ち寄ったり、どこかから頂戴した種や球根から花壇を作っていった。花壇がきれいになると周りのゴミが気になりだす。ゴミが多くては、いくらきれいな花が咲いてもということで、ゴミの収集から始まって公園やその周辺の清掃にまで活動が拡がった。

すべては善意からでたものなのだが、市役所から商店主に注意というのか指導がでてきた。ボランティア活動には感謝しているが、あまりに活動が活発になりすぎて、公園課とその外注先の仕事に支障がでているから、少し控えるようにとのことだった。そういわれた商店主、「支障?」「控える?」、いったい何のことやら見当がつかない。どういうことなのかと市民課に訊いたが要をえない。しょうがないから公園課に行って係りの人に話を聞いたら、いいにくそうに、「ボランティアの人たちががんばりすぎて、公園課とその外注先の仕事がいらなくなってしまうのではと不安の声があがっている」ということだった。

不安の声?何の不安がどこから?と考えれば、出元は公園課そのものと、その外注先の二つしかない。ボランティアの人たちが何年もかけてきれいな花壇にまでした公園。ボランティアの人たちが手をかけるまでは、雑草だらけの空き地のようだったところがきれいになったら、それは困るという。そうはいわれても、ボランティアの人たちに、いまさらボランティアを解散しようなんてことはいえない。

ボランティアの人たちに任せておけば、参加者もハッピーだし、公園美化にかける予算を減らして、保育園や公園の遊具やその他諸々に予算を振り分ければいいだけじゃないか、とボランティアの人たちも地域の人たちも思う。ことろが、行政も外注先の業者もそれでは職を失う。増やせとはいわないが、いままでとおりの予算を配分してもらわなければ困る。

これが公園緑化だけでなく、不用品の回収や駐輪場の整理、図書館の貸出し返却窓口作業でもボランティア活動が活発になって、行政に任せきりにしてきた色々なサービスを行政から住民の手に取り戻していったら、どうなるか。住民参加型というようなレベルを超えて、住民の自治へと発展する可能性がある。そこでは行政の領分が小さく狭くなって税金も安くなる。今までどおり行政の領分は行政にまかせて、それ以外の日曜菜園などのコミュニティ活動までで収まっているうちは、既得権益と化した行政や業者と競合することもないが、ボランティア活動を通して市民が自分たちのこととは自分たちでやればいいという考えに至ると、民主的な社会をつくりあげる第一歩、市民社会のDIYが始まる。DIY、自分たちが必要なものを自分たちの工夫で、なにも特別なことではない。市民社会の本来あるべき姿でしかないはずなのだが、現実の社会はそれでは困る行政と民間企業の既得権益者によって構成されている。その人たちにとって、ボランティア活動は、参加者のささやかな自己満足あたりまでのものでなければならない。必要とあれば資格や認定制度を設けてでも、ボランティア活動を制限するだろう。

地域社会の民主化に通じるボランティア活動がある一方で、それをビジネスに展開する、している人たちもいる。表面的には非営利団体(=NPO)の顔をしてはいるが、そこそこの大きさの組織になると、事務所も要れば、専任の職員も必要になる。何をするにも金がかかる。そのかかる費用を市井の人々の善意に基づく寄付にたよる方法もあるが、活動を定常的なものにするには、自らの意思で自由にできる資金がほしい。倫理的、道義的制約があったにしても組織の考えで自由に使える資金をと思えば、それはもうボランティアの様相から社団法人に近い存在になる。ただ参加者や支援者の善意に基づいたボランティアであるという体面を考えると、巷の民間企業の形態は望めない。そこに営利活動はしないという体面を保持したままで営利活動をしうる組織形態がある。

NPOは英語のNon Profit Organizationの略で、日本語では非営利団体と呼ばれている。言い過ぎではないと思うが、この言葉にはごまかしがある。おそらく多くのNPOでは、出費はあっても利益はないだろう。ではNPOは利益を求めていないのかといえば、利益を求めているNPO法人がいくらでもある。NPO法人に関する法律に詳しくはないが、極論を言えば、営利企業との違いは株主配当をしないということにつきるような気がする。

NPOなどという外来の言葉が登場するはるか前から、日本にはしっかりしたNPO法人があったし、今もある。一つの例が生活協同組合で、組合員の日常生活を豊かにするための互助組織から発展して今日の組織に成長した。成長したがゆえに組合員だけでは、組織を運営できない。本来利益を求める組織ではないが、その経済活動を傍からみれば利益を追求する民間企業とたいして変わらない。
一部の大きなNPOではそこまで節操なく儲けるかというほどの利益を上げている。TOIECのTOEFLもアメリカのNPO法人が運営しているはずで、世界をまたにかけて莫大な利益を上げている。

先の公園緑化に戻れば、ボランティア団体をNPO法人にして、ボランティアに集まる善意の人たちの無償労働を利益の源泉とすることすら可能になる。行政とNPOの持ちつ持たれつの関係やNPOの詳細は、主要幹部以外の人たちにはわかるところまでしか わからない。
ボランティア、善意の人たちの善意の活動、人間社会になくてはならないもの、誰も否定のしようがない。でも輝いていればいるほど、ほんとうにボランティアまでなのか、その先はどうなるのかと気になってしまう。
2017/12/24