ネット社会を実社会に

三ヶ月ほど前(二〇一七年五月)に戸籍謄本をとりに新宿区役所にいった。一階の謄本担当部署について、六年前に来たときに感じたのとは違う違和感があって、どこか違う世界にきてしまったかのような気がした。前に受けた違和感が軽いカルチャーショックだったこともあって、もう免疫もできていると思っていたし、そんなことで驚きゃしないという思いもあった。なにがどうなったところで、どうでにもなるとたかをくくってはいるが、大きな時代の変化に、このさきどうなるのかと思うと落ちつかない。

荒川区の町屋で生まれて、小学校からは田無で育った。両親とも東京で十代目かそこらの家系、再開発やなんやらで東京から出ていった親戚もいるが、親の代までは誰も彼もが東京生まれの東京育ち。良くも悪くもどんどん変わっていく、人の出入りの多い東京で生まれ育って、社会はものすごい勢いで変わってゆくものだと、それが社会のありようだと思っている。ただいくら変わったところで、まさか自分が異邦人のような思いをするとは想像できなかった。

世間でいう田舎というものがない。東京が田舎で、自分の故郷なんだが、じゃあ改めて自分の田舎をイメージしようとしても、浮かんでくるのは、ちんちん電車にお化け煙突、町工場とパチンコ屋に真っ黒な荒川。住宅と町工場が入り組んで、ごちゃごちゃした路地で遊んだ記憶しかない。そんな田舎が区画整理できれいになって、みんななくなってしまった。

東京が自分の田舎と思っているはいても、新宿区役所の窓口に行くと、ここがオレの本籍地のある区役所かという気になる。海外からの人も混じって、どうみても、あまりに雑多な、それはもう「いろいろ」というのを通りこして、違う世界から来た人たちに見える。それは集まりではない。ただ偶然居合わせただけの人たちで、お互いに何らかの共通する文化なり、価値観や社会観があるようには見えない。いつの時代にも、そこから一つの社会を構成してきたのだろうとは思うが、ほんとうにできるのか心配になる。

偶然居合わせただけの、お互い縁もゆかりもない人たちに、スマホが輪をかけていた。銀行や病院と同じようにみんな整理券をとって、ベンチに腰掛けて自分の番がくるのを待っている。担当窓口の用意ができると整理券の番号が大きなディスプレイに表示される。
銀行や病院なら、早く自分の番号が表示されないかと頻繁にディスプレイを見るのだが、そこでディスプレイを見る人はいない。表示しただけでは気がついてもらえないから、整理券の番号と担当窓口の番号がアナウンスされる。アナウンスされれば気がつきそうなものだが、スマホに集中している人たちには聞こえない。しょうがないというといことなのだろう、呼び出し係りの人があっちのベンチからこっちのベンチへと歩き回ってアナウンスされた番号の整理券を持っている人はいませんかと声をかけて回っていた。驚くことに、声をかけて回っても、自分の番号だと反応する人がなかなか出てこない。何度も番号をいいながら歩き回ってやっと、番号の人が気がつく。

物理的にはそこにいても、気持ちの上ではそこににない。誰も暇つぶしに区役所まできているわけではない。こなければならない用事があって来ているのに、用事そっちのけで気持ちはネットの上にいる。周囲にどんな人たちがいるのか、なにがおきているのかなど気にもしない。自分が物理的にいるところには気持ちがない。

ニューヨークやロンドンのような人種のサラダボールではないが、そこは新宿。いろいろな人がいる。いろいろな人たちがさまざまな文化をもって集まって、いくつもの社会集団ができて、そこから一つの社会が生まれる。それは人々が物理的に集まってできるものだったが、インターネットがそれを変えた。物理的にどこにいるかが社会集団を形成する条件ではなくなった。インターネットに接続する手段さえあれば、大げさに言えば地球上どこにいても、言語の壁を乗り越えられればという制約があるにしても、ネット社会の住人になれる。

自分がどんな社会集団に所属して、どこに住んで、どこで働いて、どこで買い物をして、この「どこ」に制約されない社会が歴史的に培われてきた社会とは別に存在する。この別に存在する社会への人々の関心が大きくなれば、今まで社会といってきたものが二次的な社会になりかねない。昔のように偶然隣り合ったからということで、世間話になるようなことも減って、物理的な周囲から隔絶された社会に、精神的には身をおくことが多くなる。その延長線には国や地域や実社会から遊離した人々の日常生活がある。

バーチャル社会とネットシティズン、もう当たり前になってしまって聞くことも少なくなったが、どこかで実社会との関係をどう構築するか真剣に考えなければならないところまできたような気がする。ことは自分たちの次の社会への進化、具体的にこうしたほうがいいという考えが思い浮かばないが、なるにまかせておけばいいという話ではない。彼岸のようなネット社会があったにせよ、生きているのは此岸、実社会で、そこへの関心や責任が薄くなれば、既得権益層にとって扱いやすいただの住人がいるだけの社会になる。

人為的につくったコミュニティにひとつの答えを見出そうとする人たちがいるが、コミュニティを通した活動やボランティア活動の延長線に実社会とネット社会をつなぐ何かがあるとは思えない。歴史を通して築き上げてき実社会とネット社会を融合する何かを創造しなければならない。
2017/9/3