伝えたいという気持ち(改版1)

アメリカの画像処理メーカの日本支社で、口数が多いだけの社長にお仕えしていたとき、京都の中堅企業のオーナー社長から誘われた。オーナー社長、アドバイスをということで事務所にきだしたはいいが、話が漠然としていて要を得ない。口数は少ないし、何を言っても途切れ途切れで、聞いたことからでは何をしようとしているのか分からない。たぶん言っている本人も分かっていない。個々の話ですらはっきりしないのに、会社としての将来像など訊いたところで、ぼそぼそ言ってるだけで何もない。しょうがないから、具体的な例をいくつか挙げて呼び水を流してみたが、意味のある答えは返ってこない。

口数ばかりで当てにならない社長に振り回されていたこともあって、口数が少ないというだけで、オーナー社長の依頼を受ける気になってしまった。どっちも話の要を得ないのは同じ。口数の多い少ないが話の内実には関係しない。口数が少ないほうが雑音が少ないだけ疲れないが、肝心の情報がでてこない。どっちもどっち、状況次第でどっちがいいとはいいきれない。

「巧言令色鮮し仁」という故事から、常識となった感のある誤解が生まれている。口数の多い人は口先ばかり達者で言っていることに中身もなければ、人としての良心がない。その反動でもあるまいが、口数の少ない人は信頼できる。今も変わらずに「有言実行」より「不言実行」を尊ぶ風潮が生きている。口数の多い男は面白いヤツと思われることはあっても信頼されることは少ないし、口の軽い女はというのもある。

そんな思考の慣性をふっきって、人と人との意思疎通という本質に戻って考えてみれば、「巧言令色鮮し仁」も「不言実行」も口数がどうの、口が重いの軽いのも、当てはまることより例外の方が多いことに気づく。ざっと整理してしまえば、意思の疎通には次の要素が欠かせない。

1) 話す内容が、聞く人に分かりやすいように、誤解される可能性を極力排除した要点にまとめられているか。理解の妨げになりかないことが含まれていないかという視点で整理できているか。
この時点で、口数が多いか少ないかという視点が雲散霧消する。理解の助けにならないことや誤解の可能性のあることは言わないほうがいい。必然的に意思の疎通を図る最小限の口数になる。
2)聞く人が話を理解するために必須の知識を持ち合わせているか。
3)聞く人が理解し得る内容や程度に合わせて話せるか。
4)聞く人に話を聞かなければ、理解しなければという理由と意思があるか。

この四点のどれが欠けても意思を伝えるのは難しい。言い換えれば、この四点でどこまで正確に伝わるかが決まる。
こうしてみれば、「巧言令色鮮し仁」にさしたる意味があるとは思えない。2)があれば、余計なことを聞いても理解しなければならないことには関係なしと切り捨てられる。切り捨てられずに令色にまどわされるのは、聞く人がなんらかの雑念をもっているからで、雑念の整理がついていなければ、聞かなければならないことを聞ききれないし、聞かなくてもいいことを聞いてしまう。

ここでもう一度、意思伝達の基本に戻って考えてみる。目的は、話す人が考えていることを聞く人に伝えることにある。意思伝達の始まりは話す人にある。いくら聞く人が理解しようと思っても、理解しえる内容でなければ理解しえない。理解しえる内容にするのは話す人の責任で聞く人にはない。ということは、話す人は、聞く人がどの程度の知識や知能をもっていて、この程度の内容であれば、理解しえるだろうと考えて、話の内容と話し方を工夫しなければならないということになる。

大学教授が教授同士で専門分野の話をするときと、学部生に講義で話をするとき、一般社会人に向けて話をするとき……、話しの内容が同じでも、相手によって話の展開の仕方を工夫しなければならない。当然使う用語も違うはずで、そうでもしない限り、極端に言えば話を聞いてもらえない。物理的に音として聞こえるというまでで、理解してもらえない。もっとも教授としての格好をつけるのが、あるいは相手を煙に巻くのが目的なら話は別だが。

世間話ならいざしらず、多少なりとも込み入った話になれば、聞く人の社会的立場や関心に加えて、知らなければならない、知りたいと思っていることにまで考えて、聞く人に合わせた話にしなければならない。当たり前の話で、考えを相手に伝えようと思うのであれば、まずは「ご理解いただく」という姿勢からはじめることになる。この「いただく」がないところから有意な情報伝達が生まれることはない。
どこかの首相ではないが、言葉はあっても内容のない話では伝えるも伝えないも伝える中身がない。中身があって伝わらないのは、ひとえに話す人の努力と能力、それを生み出す伝えなければという気持ち――「ご理解いただく」という姿勢があるかないかにかかっている。
2017/9/3