歌舞伎よりマンガに期待する(改版1)

アメリカやヨーロッパの人たちと仕事をしていると、あまりに日本のことを知らないのに驚くことがある。距離的にも文化的にも遠い国であることを差し引いたにしても知らなすぎる。インターネットまで普及した時代、知る機会や手段がないからというのは理由にもならなければ言い訳にもならない。
なぜとそこまで知らないのかと考えていくと、どうも多くの白人がもっている素朴(?)な人種的優越感があるような気がしてならない。遠くはなれた有色人種の文化的に遅れた国のことなど、あえて知る必要がないという気持ちが文化にまでなっているのではないかと思う。

仕事ででしかないにしても、日本との付き合いも何年にもなる。それでも日本がどこにあるのか知らないのがいる。大西洋を中心に左右に振り分けた地図を広げて、中国を指して、フィリピンを指して、ここが日本だと真顔で言われると、その程度の相手、どう話をつづけたものかと考えてしまう。日本車に乗って日本製のテレビをみて、身の回りにこれでもかというほど日本の工業製品が溢れているのに、サムライと芸者に富士山ぐらいしか知らない。しばし興味本位か商業目的で奇形化されたことを知っているだけで、そんなことなら何も知らないほうがいいと思うことも多い。

知っている知らないは程度問題で、誰も全てを知っているわけではない。程度問題だから、富士山と芸者を写真でみて、言葉として知っていれば、知っているということになる社会もあるかもしれない。沖縄の基地に一年かそこいらいただけで、日本通というアメリカ人さえいる。それはそれでいいだろという気にはなれないが、なんともしようがない。知ろうとしない、知ったところで何になると思っている、あるいは興味の対象のリストの一番下にも入っていない生活をしている人たちに、どうしたら知ってもらえるかなど、考えたところで何がどうなるわけでもない。それでもそりゃないというのに遭遇すると、多くを望まないにしても、なんとかならないものとかと考えさせられる。

知ろうと思えば、インターネットでいくらでも知ることができる。ただ彼らの知ろうとする気持ちを矯正しなければ、インターネットがあっても、こっちからいくら何をしても状況は変わらない。自分たちとは大きく違ったエキゾチックなものに関心があるだけで、普通の、あまりに欧米化してしまった日本や日本人の日常生活には何の興味も湧かないから、これ以上はないというほど偏った知識しか得られない。偏ったところに偏った情報で、ちょっと前まではサムライに芸者と富士山だったのが、相撲やニンジャにポケモンにまでには広がったところで終わる。

あまりにも今の日本からかけ離れたものを日本と思っている人たちに、文化交流の錦の御旗のもとに、これが日本だと古典芸能――歌舞伎と相撲、浄瑠璃に能、茶道や華道……を紹介し続けている人たちがいる。文化使節のような誇りすらもって、公的資金まで使って、多くの日本人からですら遠くはなれたものを紹介して、偏りを大きくし続けている。その人たちがいう文化からほど遠い生活に明け暮れる巷のものには、あるべき文化交流の姿を理解できないだけだ、とお叱りを受けるかもしれないが、普通の日常の日本を知ってもらわずに、何が文化交流だといいたくなる。

この十年ちょっとになるが、アメリカやヨーロッパの多くの都市にいって驚いた。日本のマンガ専門店があちこちにあって、若い人たちでにぎわっていた。翻訳されたマンガがそのまま、日本文化として受け入れられている。それは民間の努力の成果であって、行政や文化団体のように税金や寄付に頼った、大仰だった文化交流から生まれたものではない。

マンガやアニメなどを総称してサブカルチャーと呼んでいるが、江戸時代、狩野派や琳派からみれば、浮世絵は庶民の、いってみればサブカルチャーだったろう。なにか特別なときに狩野派や琳派に接することができる人たちまでいれたところで、浮世絵を楽しんだ人たちに比べれば、取るに足りない一握りの人たちにすぎない。その一握りの人たちの文化が伝えるべき文化で、圧倒的多数の巷の人たちの文化は伝えるほどの文化じゃないというのはないだろう。

一握りの人たちが楽しんだにすぎない、いまや一握りにすらならない人たちしか接することのなくなった伝統文化を海外に紹介するより、今日のサブカルチャーの海外への広がりの方が本来あるべき日本の紹介だろう。サブカルチャーは極端なある一面でしかないが、それでも今日の庶民の日常の文化であることに違いはない。マンガもアニメも億劫な歳になってしまったが、日本を知っていただくことが、そこから始まっているような気がする。
2018/1/14