「努力」目標の文化(改版1)

日産自動車の検査の不正や神戸製鋼の製品計測データ改ざんのニュースを聞いて、驚かないどころかあって当たり前、ないはずがないとしか思えないのが情けない。いまさら何をで、似たようなことは昨日今日始まったことでもなければ、日産や神戸製鋼が特異な体質や文化ということでもない。そこには太古の昔から連綿と続いてきた日本人の、よくいえば柔軟な、固いことを言えば適当なというというか、ある意味緩い考え方があるような気がしてならない。

社員でもなれば当事者でもない、新聞やテレビで聞きおよぶだけの巷の一私人、何を知っての話ではない。それでも七十二年に卒業して工作機械の技術屋を目指したもののたつたない経験から想像して、どちらも起きるべくして起きていたことが露見したとしか思えない。
似たようなことが起きるたびに、ことの本質には踏み込まずに、日本株式会社は現場の実務上の問題に矮小化して取り繕ってきた。そこには担当者に責任を押し付けて平然としている人たちがいる一方で、組織の責任まで背負い込まされて消えていく人たちがいる。トカゲの尻尾きりに何が解決とも思えない、注意しましょうというような対策で一件落着が日本の文化にまでなっている。
人の噂も七十五日よろしく、過ぎてしまえばこの間までと似たような日常が流れていく。それが日本の問題だという生真面目な人もいるが、その問題こそが日本の強さとして機能して、世界に誇る日本の製造業が成り立っていることにはなかなか気がつかない。

七十年代の中ごろ、日立精機の我孫子本社工場のあちこちの壁に『Z運動』という看板が掲げられていた。毎日目はするが、それが何を意味しているのかもろくに知りもしなかった。どこかで話ぐらい聞いたかもしれないが、聞いた記憶もなければ、研究所にいたからかもしれないが、記憶に残る活動も見なかった。そんなもの、たとえ何かあったところで形だけでしかない。いちいち気にすることでもなし、知ろうとする気もなければ知らなければという気もなかった。
おおかた業務改善とか経営なんとかとかいう能書きを売り物にした業界団体からのゴタクを聞いた暇な管理職が受け売りで『Z運動』と掲げただけだろう。

『Z運動』の「Z」が何を意味しているのか、ほとんどの従業員は知らなかったと思う。それはZero defectsの略で、そのまま意訳すれば「不良品ゼロ」になる。ただどんなに金をかけて人材という人材を投入したところで、不良品を一つでもださない生産体系など構築しえない。何をしても間違いや事故は必ず起きる。スペースシャトルですら落ちるときは落ちる。その起きる件数や頻度をできる限り少なくしようという「努力目標」としての『Z運動』、決してゼロにはならない運動でしかありえない。
何をしたところでゼロにはなり得ないのにゼロを掲げられて、まっとうな技術屋ははなから馬鹿にして、まともに取り合わない。取り合おうにも、まじめに考えれば取り合いようがない。そのありえない運動ですら、限られた資金と人材から何をするわけでもない。ただ看板を掲げるだけの活動(?)だったのだろう。始めたのはいいが、雨風で汚れた看板が放置されたままで、続いているのか終わったのかすらわからない。

ここでいう「ゼロ」とは撲滅運動の撲滅とは違う。この「撲滅」というのが日本人の考え方というのか姿勢をあらわしているのだが、もし「交通事故を撲滅」という活動があったとしても、誰も交通事故を完全になくすことなど考えない。それは「撲滅」に向けた、どんなことがあったところで「撲滅」なんかしえっこないだろうという「常識」のもとにされることに過ぎない。

経営結果しか見えない頭の乱視の経営陣が、現場の実情を知りもせずに、現場に「要求」突きつける。そこにはどのようにしてどこまで施行するのか、そのための俗にいう「人、金、物」をどのようして投入してしなければならないという、あって当たり前、常識で考えれば、ないはずがない考えがない。
上意下達の文化のもとで、まるで戦時中の皇軍に敗北はないといった小学生程度の考えで指示を出す。出てきた指示を満足する方法など現場にはありもしないが、それを上部組織に具申したところで、聞き入れられる可能性などあるわけがない。ないだけならまだしも、まじめな具申は上部組織に対する反抗としか思われない。巷で言うネガティブ思考などという烙印を押されて左遷されるのが落ちだろう。

ここで日本文化の強みが発揮される。命令した経営陣は命令したことが「文字どおり」実行されることを期待していない。ただのかけ声のようなもので、しばし自分で言い出した「文字どおり」の意味もわかっちゃいないし、命令したことは「目標」ではなく「努力目標」に過ぎない。現場もそれを知っているから、命令されたことを実行するために欠かせない条件―「人、金、物」のことで騒ぎはしない。多少の追加投入をもってしてできる範囲のことをして、「努力」した結果が「達成したというより到達した目標」として、お互いにがんばった、よくやったということで納得して終わる。

国際競争にさらされて、コストダウンが企業経営の最重要課題になって久しいなかで、何らかの手抜きをせざるを得ないところまで追い込まれた業界がしえることは、契約だろうが工業規格だろうが、実質上問題なければいいじゃないかという、日本の柔軟な文化が威力を発揮する。ときには、顧客との(非)公式の合意のもとで手抜きをしてきたこともあるだろう。お互いに一度合意した機能や性能を問題のない範囲で妥協してと思ったところで合意事項を改定する――明文化するにはとんでもない作業(人、金、物)が必要になる。
悠久の歴史に培われた日本文化の延長線でなあなあでうまくやっているのを、文化からはみ出した困った人が杓子定規にとらえて内部告発する。内部告発で指摘していることは正しい。ただ、かつて明文化した仕様や機能が現時点で市場の実情にどれだけ即しているかは別問題で、本来はこっちを解決しなければならない問題とすべきなのだが、一度決めたことを変えるのは難しい。
日本株式会社が置かれた状況をうまく使ってきた「努力目標」だが、それは改めて考えるまでもなく本音と建前のつじつまを合わせる処世術に他ならない。日本人の思考の柔軟性が規則は規則、現実は現実としてきたいい例だろう。

日本人の感覚では、なんとも上手な、あって当たり前なければ困る妥協に見える。ところが、これがアメリカの会社では難しい。多人種多文化社会をまともに機能させるには、担当者が変わっても、何が変わっても、誰がみても同じようにしか判断できない「合理的な契約」という明文化が必須で、そこから外れられない。
アメリカのストイックまでの明文化の文化をみたあとでヨーロッパをみると、日本とはちょっと違った処世術がみえる。命令する側とされる側の暗黙の合意(馴れ合い)などどこにもない。そんなものを必要としない階層化した社会の歴史と文化があって、どんな命令であろうが現場は現場の都合で勝手に判断してやっている。
そこでは、設計者のミスで部品加工図に寸法の記載洩れがあっても、きちんと使える部品ができあがってくるし、図面に公差を指示しても、平気で公差を外れた――不良品とされ廃棄される部品が、使えるはずだからと良品として出荷される。馴れ合いの日本と断絶のヨーロッパ、明文化のアメリカといったところだろう。

明文化してガチガチのアメリカは疲れるし、暗黙の合意の余地もなくて不良品を垂れ流すヨーロッパは当てにならない。馴れ合いの日本もいい加減すぎて、それでいいじゃないかというのははばかれる。それでも、馴れ合いに慣れているからだけかもしれないが、最後は日本ということになってしまう。なあなあで上手にやってきた日本が傷んでいくのをなんとかできないものかと思ってはみても、それは悠久の歴史に培われた文化そのもので、おいそれと対策などありゃしない。
ただ日本もアメリカもヨーロッパも、中国をはじめとする国々も違いを言い合っているうちにだんだん平準化していって、時間はかかっても、どこもここも似たようなるのではないか。キーキー言うこともない、暗黙の合意に基づいたゆるやかな努力目標でいいじゃないか。
2018/4/8