朝礼はしないほうがいい

欧米の会社から日本の会社に戻ったとき、かつては当たり前だと思っていたのに、これだけはよした方がいいという習慣というのか文化に気が付いて驚くことがある。欧米の会社に戻ったときにも似たようなことがあるのだが、日本の会社で儀式のように毎朝繰り返される朝礼には生理的な嫌悪感まである。アメリカ支社にいたとき、京都の本社の朝礼を録音したカセットテープが送られてきた。何かと思って聞き始めてすぐ止めた。何があるわけでもない時間の無駄の見本のような話、驚きを通り越して、いったい何を考えているんだとあきれかえった。

毎朝、本社で四、五十人が突っ立って、部長の話から始まって社長の話まで、長いときは三十分も聞いている格好をして時間が過ぎるのを待っている。もし全社員に連絡を徹底したいのなら、コンピュータネットワークで内容を配信して、一読したことをフィードバックさせればいい。そうすれば記録にも残る。

そもそも新聞社やテレビのニュース番組でもあるまいし、毎日毎日みんなに話さなければならないことなどありはしない。たとえ伝えなければならないことがあったにしても関係者までで十分で、関係ない人たちは聞いたところで、なんの意味もないし、内容によっては聞いてもなんだか分からないことすらある。

特別何もないのに何か話さなければならないとなると、整理もついていないからだろう、聞いても何を言いたいのかわからない、どうにもならない話しになる。聞いている方も、聞いたところでなんの意味があるとも思ってないから、まともに聴こうとはしない。坊主があげるお経なら、どことなくありがたい響きがあるが、朝礼の話はただの雑音でしかない。よほどその類のことに才能のある人でも、みんなが聞いてよかったと思えることを、誰にでもわかるように手短な話しにまとめるのは難しい。これはと思うときだけならいざしらず、毎朝となると、もう儀式になってしまう。

話すこともないのに、格好だけはつけようとする管理職、かわいそうなことに自分がきちんと話をする能力がないことを毎朝、直属の部下も含めて従業員に周知する作業をして、従業員は仕事をせずに、お馬鹿な時間が過ぎるのをまっている。その間にも顧客や配送業者やなんやから電話が入る。事務の女性があわてて電話をとって、小声で「今、朝礼中なので、折り返し電話さしあげます」などといいながら、頭をぺこぺこ下げている。この風景を毎日見てというより、参加者の一人としていることになんの疑問ももたなくなるのが恐ろしい。

そんなことを毎朝していれば、なにはなくても儀式の格好さえつけていれば、時間になって終わるのが普通のなってしまう。会社に何をしにきているのかと訊けば、仕事をしにきていると答えるだろうが、どうしてどうして、全体朝礼の後には部内や課内の朝礼が待っている。それが終わって、一息ついたら、もう十時すぎ、ちょっとした会議にでて、気がつけば昼飯の時間でということで午前中が終わる。

朝礼になんの意味があるのかと訊いたら、多くの人たちを前に話をする練習としての意味もあるなどと馬鹿なことを言い出す管理職までいるからあきれる。幼稚園でもあるまいし、どうでもいいことを話す訓練?何を考えているのか。
朝礼も含めて儀式を儀式として認めるところから、しなくてもいいこと、しない方がいいことがはっきりしてくる。毎日が同じことの繰り返しになって、繰り返しのなかのいくつものことが、よくよく考えれば、してもしなくても結果に影響のないこともある。合理化などという言葉を口にしながら、しなくていいことをし続けていたら、よくて滑稽、本当のところは何も見えていない、存在自体が儀式のような人ということになりかねない。

人様の貴重な時間を無駄につかって、つけようのない格好をつけなければならない管理職、己の無能をわざわざ毎朝証明することもないだろう。朝礼なんかしてないで仕事をしろ。
2017/11/19