VWとドイツ社会―三つ子の魂

ドイツの中道右派(自称リベラル)の日刊新聞Die Welt(ディ・ヴェルト)から一月末にフォルクスワーゲンの排ガス人体実験の記事(英語版)が送られてきた。
早いもので、もう二年以上前になるが、フォルクスワーゲンは、ディーゼルエンジンの排ガステストをごまかすソフトウェアまで作っていたことが露見して大騒ぎになった。彼らの現在の技術をもってしては、これで終わりという最終解決案などあり得ようもなく、未だに問題を引きずっている。そこに今度は人体実験の問題が発覚した。

[注]
<マツダとデンソーの可能性>
「現在の技術をもってしては」の前にあえて「彼らの」とつけた。なぜなら、マツダが、たぶんデンソーの協力を得てだと思うが、開発したにディーゼルエンジンなら排ガス規制をクリアしている可能性があるから。

ごまかしのソフトウェアにはあきれたが、今回はなんせ人体実験、記事を読めば普通の人なら誰しもがそりゃないと驚く。ただ報道内容もさることながら、ニュースをみた日本人がどう思ったかの方が気になる。二年以上前に「驚いた」り「がっかりした」した多くの人たちが、おそらく今回も同じように「驚いて、がっかり」したのではないかと想像していている。
ソフトウェアや人体実験はフォルクスワーゲンとドイツの問題でしかないが、同じように「驚いて、がっかり」は日本の問題。その日本の問題のもとには、驚くのが当たり前になっていて、なぜ驚くのかとは考えない、これまた純粋に日本の問題が横たわっている。

昭和二十六年(一九五一年)に東京の町屋で生まれて郊外で育った。高専を卒業して工作機械の技術屋を目指した。時代だったのだと、言い訳がましく思っているが、子供のころからドイツの工業技術には畏敬の念があった。それは今でも残渣のように残っている。まさか『三つ子の魂百まで』って話じゃないだろうと思いはするが、似たようなものかもしれないという不安がある。
畏敬の念ということでは、日米欧の製造業を渡り歩いてきた仕事仲間の話からも、自分が特異なケースではないと思う。日本人には多かれ少なかれ刷り込まれたというのか、抜けきれないドイツに対する羨望の念がある。
幸いなことにか、ドイツの会社やドイツ語圏の会社でトラブルの泥沼を這いずり回った、思い出すだけでも吐き気がする経験のおかげで、記事を読んで驚きはしたが、畏敬の念がひっくり返った「そりゃ、さもありなん」という気持もあって、正反対の気持ちが凌ぎあって落ち着かない。

多くの人たちの「驚いた」というのは、世界に冠たるドイツの自動車メーカが排気ガスの人体実験などするわけがないというドイツの工業力に対する畏敬の念と社会体制に対する憧憬の思いがあるからだろう。その思い込み、いったいどこから生まれたのか。どうしてそんな虚像といっても言いすぎではないものがつくられたのか、誰が何を目的としつくって、それがなぜ二十一世紀になっても残っているのか。いつになったら畏敬の念や羨望から自由になれるのか。もしなれないであれば、そんなものを持ち続ける原因はなんなのか。いつまで経っても思い込みを整理しきれない思考の慣性、自分だけではないだろう、が重い。

七十二年に名門工作機械メーカに就職したが、技術的にはドイツの工作機械にはとても追いつけない、と漠然と思っていた。三十半ばにアメリカの制御装置メーカに転職してカルチャーショックを受けた。そこには技術だけでなく、経営や組織における合理的な見方とやり方が、社会として当たり前のこととしてあった。
八十年の中ごろから二〇〇〇年にかけて伝統的な製造業では、日本メーカがアメリカ市場を席巻していた。階層化されたアメリカ社会には経営陣と技術陣と生産ラインの間に埋めがたい溝があった。組織を挙げた体系だった生産管理システムがあるにもかかわらず、組織と組織の、人と人との隙間から、なぜこんな簡単なことがと思える障害があふれていた。

二〇〇〇年にドイツの名門といわれたMannesmann傘下のモータドライブ専業メーカIndramatへの転職の機会に恵まれた。同業のSiemensのキャッチコピーは「German Engineering」で、Porscheの謳い文句は「Nothing comes close to Porsche」だった。製品の品質問題は品質問題にとどまらず、背景にはそんなものを出荷してしまう組織や文化の荒廃がある。アメリカの会社で疲れて、ドイツの会社ならと思って転職したが、そこには品質云々どころか、会社組織や文化がどうのというよりドイツの社会と文化、それを培ってきたドイツの歴史そのものから生まれた、手のつけようのない問題が、ドイツ人が誇るドイツの問題があった。
現象として現れている問題や背景にある組織や文化の問題を解決しなければと、たとえドイツ人の多くが思ったところで、解決が実感できるようになるまでには、数世代、数百年かかる。問題の根はあまりに深く、もし解決したらドイツがドイツでなくなってしまう、今までとは違うドイツになってしまうと言っても言いすぎではない。

ディーゼルエンジンの排気ガスが健康の及ぼす影響はさまざまな検証を経て実証されつくしている。にもかかわらず、あたかも公的機関に見える研究機関までつくって、サルどころか成人二十五人まで使った人体実験までした。排気ガスは、World Health Organizationが言うように、みんなが思っている、あるいは信じさせられているようには、健康に悪い影響を与えないと実証しようとした。

研究機関はEuropean Research Group on Environment and Health in the Transport Sector (EUGT)。なんとも立派な公的な機関の響きがあるが、それをつくったのはフォルクスワーゲンにダイムラー、BMWとBoschの四社。大層な機関をつくったが、何を検証したわけでもなく、都合のいい検証結果をもってくるであろう研究機関や研究者に金を撒いただけだった。その研究機関の一つがAachen University Hospital RWTH(アーヘン大学病院)で、驚くことに、関係したドイツの科学者の目には、あまりにあたりまえのこととして、倫理委員会の承認のもとに人体実験をした。

[注]
<ディーゼルエンジンの普及>
日本では、ディーゼルエンジンはバスやトラック用でしかないと思われているが、EUでは乗用車の約半数がディーゼルエンジンを搭載している(二〇一一年のピーク時には五十五パーセント)。もう二十年以上も前になるのか、記憶が定かではないが、クリーンディーゼルなどという、いまとなってはプロパガンダでしかなかったと思う言葉が飛び交っていた。誰がいいだしたのか?アメリカの自動車業界でもなければ日本でもない。調べるまでのこともあるまい。残るのはEU。EUの自動車業界を牽引してきたのはと考えれば、おのずと自動車会社三社とディーゼルエンジンの燃焼システムを提供している巨大企業にいきつく。
ディーゼルエンジンには多くの優れた点があるが、ここでガソリンエンジンとの比較をしようとは思わない。Webで調べれば、いくらでもわかりやすい説明が見つかる。

Aachen University HospitalのDr Thomas Krausの報告では、二十五人の健康な人たちを二酸化窒素に三時間さらしたが、健康への悪影響は見られなかった。どこまで事実を話しているのか分からないが、人体実験に対する批判にさらされて、検証は問題となっているディーゼルエンジンの排気ガスとは関係なく、作業環境の汚染物質の計測を目的としたものだったといっている。これを言い逃れでないというのは、Kraus博士をはじめとする科学者と呼ばれる人たちと利益共同体の一員だけだろう。
ボン大学のInstitute for Science and EthicsのBert Heirichs教授は、あきれたことにAachen University Hospitalは企業の利益からは完全に独立して検証を行ったと主張している。

創薬の臨床実験では人に投与することが認められているのだから、ディーゼルエンジンの排気ガスの人体実験をして何が悪いという人たちもいる。その人たちの考えでは企業利益やある特定の社会集団の影響を受けない研究機関が細心の注意を払ったうえでの人体実験ならば、いいではないかという話になる。ところが百歩譲っても、EUGTはフォルクスワーゲンをはじめとするドイツの自動車メーカによって設立された研究機関で、外部からの影響を受けない独立した機関ではない。誰の目にも、自動車メーカの利益のために創設され、手前味噌の検証結果をひねりだすことを目的とした研究機関でしかない。
この類の話を聞くと、排気ガスの人体実験からアウシュビッツの強制収容所のガス室を思い出す人もいるだろう。

ことの発端はNew York Timesの一月二十五日付けの記事で、ドイツの自動車メーカ三社によるディーゼルエンジンの排ガス人体実験を暴露した。この記事をうけて、翌日からドイツの新聞社の報道が続いている。
第三者機関のようなものまでつくってメーカの都合のいい検証結果を求めて、それを科学的事実として主張する。そして科学的にも倫理上も許容されないという騒ぎになったとたん、誰も彼もがそんな実験がされたことを知らなかったと言って、社内外を含めてスケープゴート探し走っている。
それはまるで第二次大戦を可能にしたドイツの工業力と上意下達のドイツ文化そのものではないのか。戦後ヨーロッパの優等生として、そしてEUの盟主としてしてきたことが、ナチスがしたことと根っこのところではかなりの共通項があるようにしかみえない。

科学にも技術にも魔法はない。課題を克服するために一つひとつ、地味な努力の積み重ねの上に、はじめて今までの状態を越えたものが生まれてくる。ところが、なかにはビジネスに都合のいいデータなり検証結果を提供することで禄を食む研究者もいれば、都合のいい情報を吹聴することでスポンサーに貢献することで生きているメディアもあれば先生方もいらっしゃる。

そんな視点からドイツの自動車メーカの今回の醜聞をみると、子供のころに刷り込まれたドイツの工業技術への畏敬の念や安定した民主的な社会を実現したことになっているドイツの社会民主主義への憧憬が、どこまで事実だったのかと思いだす。もしかしたらドイツという国家がうまく抱え込んだ日本の知識人や大学の先生や研究者の頭の近視に乱視がもたらした影響からではないかとすら思えてくる。

七十年代中ごろだったと思うが、雑誌『世界』に金日成のチェチェ(主体)思想を賛美した報告とでもいうものを読んで、お人好しにも北朝鮮が労働者による民主主義を実現すべく世界の最先端を走っている国だと思っていた。報告は、おおかた北朝鮮政府にご招待された研究者が見せたいものを見せられて、聞かせたいことを聞かされて、その程度の研究者の常として、ろくに疑問に思うこともなくのものだったのだろう。子供のころに被爆したドイツ賛美、どこか似てはいないか。

どの記事にも書いてはないが、フォルクスワーゲンという会社、ヒトラーが権力基盤を確かにしようと国民車を造るべく、ヒトラーがつくった国策自動車会社だった。三つ子の魂百までということだろう。

スペインやフランスではいまだに大土地所有の貴族階級が暗然と富と政治権力を握っている。戦後ドイツは廃墟のなから優れた社会民主主義社会として発展して、スペインやフランスなどの古いヨーロッパとは比較のしようがない公平な社会を実現してきたのだと思っていた。幸いにして、この刷り込みもSpiegel Online Internationalの記事のおかげで、ほとんど剥げ落ちた。
Der Spiegelは、ハンブルグに本社を置くヨーロッパでも最大発行部数を誇るリベラルな週刊誌。
記事をみれば、経済格差という視点では、ドイツはスペインやフランスよりはるかに不公平な社会だということがわかる。わかり易い記事で、ざっと目を通して、グラフをみれば一目瞭然。これを見ると、ドイツ社会を賛美してきたのは、いったい誰なんだろうと思う。そしてその姿の見えない誰かに、おおかた立派な学者先生方なのだろうが、洗脳でもされてきたのかもしれないと思うと、もう還暦も過ぎているのになんとも情けない。

<参考記事>
フォルクスワーゲンの人体実験
<New York Times>
BMW and Daimler Move Against Executives Over Diesel Tests on Monkeys
https://www.nytimes.com/2018/01/31/business/energy-environment/bmw-daimler-volkswagen-diesel-monkeys.html

10 Monkeys and a Beetle: Inside VW’s Campaign for ‘Clean Diesel
https://www.nytimes.com/2018/01/25/world/europe/volkswagen-diesel-emissions-monkeys.html

<Die Welt>
Volkswagen vows to end animal testing after latest diesel scandal
http://www.dw.com/en/volkswagen-vows-to-end-animal-testing-after-latest-diesel-scandal/a-42360633

VW, BMW and Daimler denounce toxic diesel fume tests on monkeys
http://www.dw.com/en/vw-bmw-and-daimler-denounce-toxic-diesel-fume-tests-on-monkeys/a-42339027

German scientists involved in toxic diesel fume tests on humans
http://www.dw.com/en/german-scientists-involved-in-toxic-diesel-fume-tests-on-humans/a-42346854

German university hospital defends auto firms' nitrogen dioxide test ethics
http://www.dw.com/en/german-university-hospital-defends-auto-firms-nitrogen-dioxide-test-ethics/a-42353001

Opinion: Car industry going from bad to worse?
http://www.dw.com/en/opinion-car-industry-going-from-bad-to-worse/a-42352373

Opinion: Purchasing facts, or the conflation of lobbyism and research
http://www.dw.com/en/opinion-purchasing-facts-or-the-conflation-of-lobbyism-and-research/a-42386963

<NPR>
German Carmakers Test Emissions On Humans And Monkeys
https://www.npr.org/sections/thetwo-way/2018/01/29/581586906/german-carmakers-test-emissions-on-humans-and-monkeys

ドイツの所得格差
<Spiegel Online>
A Look at Germany's Extremely Unequal Wealth Distribution
http://www.spiegel.de/international/business/inquality-and-wealth-distribution-in-germany-a-1190050.html#ref=nl-international
2018/3/4