池袋西口公園を暗渠に(改版1)

池袋は新宿や渋谷に比べると垢抜けきらない庶民の街の感がある。駅周辺は大きく東口と西口の二つに分けられる。北口もあるが、そこには卑猥に近い昔ながらの歓楽街が残っている。特殊浴場もあれば、都内では見ることも少なくなったストリップ劇場まである。ちょっとしたタイムスリップをというのもありだろうが、これという目的でもないかぎり足をふみいれるところではない。

東口には西武池袋本店が、西口には東武百貨店池袋店がある。駅の出口と二つのデパートの東西の名前が反対になっている。池袋本店というからには、西武の方が東武の池袋店より高級品を扱っているかと思いかねないが、西武は庶民から中流あたりまでの客層向けで、エレベータの中には乳母車専用のものさえある。いいものをと思うのなら東武になる。テナントとして入っているレストランも東武の方に高級店が多い。

駅ビルから一歩でれば、西も東も庶民の街池袋。東口には目の前にドンキーとマツキヨがある。西口にはルミネやホテルメトロポリタンはあるし、東京芸術劇場まである。劇場の前には池袋西口公園が、そしてその先には立教大学がある。こうしてみていくと、庶民の日常生活の東側、高級品と文化の西側かと思いきやというところが面白い。

豊島区のホームページは池袋西口公園を次のように紹介している。ちょっと長いが、行政の思い(?)に敬意を表して、そのまま引用する。
「豊島師範学校跡地にできた公園です。平成2年に、隣接する芸術劇場と一体的に再整備され、かつてのイメージを一掃し、駅前らしい明るさと高級感を備えた公園として生まれ変わりました。公園は開放的で広々としたもの。園内の平和の像に代表される作品が芸術劇場との一体的な雰囲気をかもし出し、芸術の香りをただよわせています」
「駅からの入り口付近には美しい噴水があり、清涼感を演出しています。公園の周囲に巡らされた背の高いオブジェは、品のいいアートを感じさせ、訪れる人々の目を楽しませます。夜にはいずれもライトアップされ、とくに噴水はゴールドの光に彩られ、なんとも神秘的な表情をみせています。この公園は景観的な美しさのため、ドラマやCMロケのメッカとなっています」

ウィキペディアには次のように書いてある。
「公園の中央には噴水があり、夜間にはライトアップされている。また、公園内には人などをかたちどったオブジェが複数配置されており、芸術劇場前の公園に相応しい雰囲気を作り出している。地面は、ほとんどがタイルで覆われている。ホームレスの姿は少ない。主に若い世代が劇場のガラス壁面を鏡に見立てて劇場閉場後に舞踊の練習をしている」

どちらの紹介にも、昔からの池袋らしいイメージがない。額面どおり、はいそうですかっていう年でもなし、本当かよと思いながら、インターネットで「池袋たまり場」と入れてサーチしてみたら、トップにトリップアドバイザーというサイトがでてきた。そこでは、池袋西口公園は「あやしい人達のたまり場。好きです」と紹介されている。

「駅前らしい明るさと高級感を備えた公園、芸術劇場との一体的な雰囲気、芸術の香りをただよわせて……」という豊島区の自画自賛と「あやしい人達のたまり場」という紹介、どっちが本当なのか。
昼間何度もいってみたが、どっちも本当だった。芸術劇場の中や出入り口までは確かに芸術の香りがしないでもないが、公園にいるのは庶民だけじゃない。あやしい人たちのたまり場の雰囲気がただよっている。穏やかな日常生活をおくっている人たちにはあやしい人たちに見られてもしょうがないという人が目につく。サラリーマンがほとんどの新橋のSL広場とは違う。どのような仕事をされているのか、お前の知識が足りないからだと言われそうだが、ちょっと見当がつかない。トリップアドバイザーの書き込みが言っているあやしい人たちというのも、そこからきているのだろう。

昼間ですら、あやしい人たちが目につくのなら、夜になったら、終電が終わったらどうなっているのか気になって出かけてみた。あやしい人たちも普通の人たちもいた。車座になって飲んでる集団もいれば、緑地保護の柵に腰掛けて飲んでる人もいるし、何をするわけでもない人たちも多い。飲みつぶれて寝ている人もいれば、夏場だからだろうが、ホームレスの人たちもいる。中にはその人たちを相手に、イエローページには載ったことのない生業の人もいる。あやしいといえばいえないこともない人たちだが、危ない人たちではないように見えないこともない。ところが、ちょっと足を踏み入れれば、そこはアンダークラスというよりアンダーグラウンド、知りえたことを細かに書くにはリスクが大きすぎる。
それは駅ビルの西口を一歩出たところから始まっている。西口がなんなのか?目白警察の係官のご忠告が語っている。そんな時間に「そんなところには足を踏み入れないことです」
言われてみれば、そのとおり。なんの用があるわけでもなし、足を取られかねないぬかるみにわざわざ入っていくこともない。

夜な夜なでかけて知り合いになって、ちょっと飲んで世間話を聞かせていただいて、良くも悪くもというより、かなり悪くのほうに近い社会の現実の一面を覗かせてもらった。ゴミ箱が小さすぎて入りきらないから、ついそのあたりに捨てる。捨ててあるのが普通になって、誰も何を気にするでもなく、足元にゴミを捨てる。ゴミはまだ捨てられるからいいが、人は捨てられない。捨てる自由なんか、まして権利なんか誰にもない。ゴミだらけの公園にその人たちの、たとえ一部にして社会の現実がある。
昼間はきれいな石で固めた公園も夜になればゴミだらけの目も当てられない公園にさま変わりする。公園中が空き瓶と空き缶とタバコの吸殻にレジ袋やその他のゴミだらけで、芸術の香りなどどこにもない。社会も文化も施設で作られるものではなくて、集う人たちがつくるものだということを実感させてくれる。

誰がどうみても、モノとしては立派なきれいな公園を再々開発でもっと文化的な施設にするという。それは、さま変わりさせている人たちを集えなくするのが目的じゃないかとかんぐりたくなる。
それというのも、どこもここも管理がいきとどいてきれいになって、東京ミッドタウンではないが、庶民の日常を感じることがなくなってしまった。それが美しい日本のありようで、おもてなしの日本文化なんだと言われそうだが、そんなことで、さま変わりさている人たちの日常に何か違いが生まれるとは思えない。
西口公園から締め出されれば、どこか違うところにいって、さま変わりさせるだけだろう。多くに人の目につかなくなればというのは、どぶ川になってしまった川を暗渠にして親水公園なんていっているのに似ている。そんな再開発、などなんど重ねたところで、庶民の血税が政治屋と土建屋の食い扶持に回されるだけで、何も変わりゃしない。問題を見えなくして、問題に気づくこともなくなって、それで問題がないって?そりゃないだろう。

人さまざま、形にはまった人たちが集まって、きれいな社会で決まったような日常生活、規律正しく訓練された小学生の行列でもあるまいし、砕ける、崩れる自由、そこから何かを始める自由。そんな人たちの行き来の中から、良くも悪くも次の社会が生まれてくる。どんな社会か、それは行政や施設がどうのというより、そこに集う今の普通ではない人たちがつくるもので、なかにはあやしいどころか危ない人たちも混じっている。それが社会の現実で、暗渠にすればという話じゃない。
2019/1/6