あるものを組み合わせれば(改版1)

産業構造を変革しなければという掛け声を聞いてからずいぶん経つ。掛け声が多少なりとも具体的になって情報化社会が喧伝され、クラウドとビッグデータになったかと思ったら、いつの間にやらAI騒ぎになっていた。そんな変わり続ける先端技術の話をよそに、サービス産業化だの地域起こしから観光立地だというのもしっかり続いている。
ある日、また地産地消の話しかよと、うんざりしながら聞いていたら、食の安全へと話しが転がって、そこから安全保障云々へ、そして食料自給と目指さなければ……。まさか鎖国しようってことでもないだろうし、たとえ善意から出た話にしても、頭の乱視もそこまでいくと、どこかのだれかの利権でしかないんじゃないかとしか思えない。あまりの話に、とてもじゃないがついていけない。

なにからなにまで、それこそ農業も酪農も林業も漁業も、製鉄やって、造船から鉄道も自動車も半導体も家電製品も、なんでもかんでも自前でなきゃってだけじゃ足りないのか。 先端科学技術で先進国の一角を占めなければと、科学技術や研究開発を推し進めなければという話が聞こえてくる。どうせ掛け声に毛の生えた程度で終わるだろうと思ってはいるが、声高に言っている人たち、全ヨーロッパが束になっても追いつけないのに、日本の経済力と人的資源をもってしてアメリカと互角に進められるとでも思っているのか、不思議でならない。常識で考えれば、背伸びとしか思えない。そんな背伸びをしなければ、日本に住んでいる普通の人たちの生活を普通の保ち、そしてわずかながらでも向上できないのか、と考えると興味深い視点が見えてくる。

二十世紀は技術革新と戦争の時代だった。良くも悪くも両者の一方が他方を引っ張るかたちで、新しい技術が次々と開発され、戦争も職業軍人同士の戦の範疇を超えて、国家の総力をあげたものになっていった。その自然延長線でこれからどうしなければならないかと考えると、民生市場で国際競争力を失った日本株式会社の軍需産業化とそれを支える先端科学技術の振興という、普通に考えて普通の結論になる。その結論、今までの社会のなかでいい立場にいた人たちの利権まで絡んで、自然延長線しか選択肢がないように思わされているような気がしてならない。

ちょっと視点を日常生活に移してみれば、その自然延長線とはまったく違った風景が見えてくる。自然延長線が疑いようのない唯一の選択肢と喧伝されて、あまりに当たり前になってしまっていることもあって、この違った風景、意識して見ようとしなければ見えない。

日常生活の風景こそが、もっと住みやすい社会にしていくための方向を示している。例をあげればわかりやすいだろう。
アップルのスティーブ・ジョブスは何をつくったか?彼は、二十世紀の後半にして、生まれることができた時代の寵児だった。彼がやってのけた革命的なことをリストアップする。

(1) Apple II―パソコン
今やちょっとした家電製品にまでCUPとメモリにセンサー(俗に言えばコンピュータ)が搭載されているが、彼が最初にやった革命的な仕事はApple IIというパソコンを作ったことだった。空調の効いた「施設」に鎮座していた巨大な電気機器で電子計算機と呼ばれていたものを、おもちゃのようなものにしても、学生でも買えるコンピュータを作り上げた。やってのけたといっても言いすぎではない革命的なものだが、それはなにも特別なものではない。Apple IIは、当時どこにでもある要素技術と部品を組み合わせただけのものだった。

(2) MacintoshとGUI(Graphical User Interface)
コンピュータでは基本的に画面には英数字が表示されるだけで、ソフトウェアの知識がなければ使えなかった。それは実にコンピュータだった。今では誰でも使えるようにグラフィック表示(GUI)が当たり前になったが、それを最初に製品(Macintosh)として市場にお送り出したのは、スティーブ・ジョブスだった。スティーブ・ジョブスがパソコンを文房具にした。グラフィック表示に必要とされた新しい技術はなにもない。表示するソフトウェアを開発すればいいだけだった。マイクロソフトがすぐに真似してMS-DOSの上にかぶせたGUIがWindows。

(3) iPod
これこそ何もない。すべて既存の技術と部品に公衆電話回線の使い方でしかない。iPodが市場に出る前に、インターネットを利用したミュージックプレーヤはすでに製品化されていた。
要素技術の組み合わせで最初に製品化したのはシンガポールのCreative Technology社で、Appleは特許料まで払っている。Creative Technology社は製品を造った。「もの造り」ではビジョナリーとは呼ばれない格好の例だろう。それをスティーブ・ジョブスは世界規模のビジネスにしたことからビジョナリーと呼ばれている。
特許侵害と支払いに関するニュースは下記BBCのサイトを参照。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/business/5280394.stm
Creative Technologyの日本支社に関しては下記urlを参照。
http://jp.creative.com/corporate/about

(4) iPhone
特別なもの?何がある?全て既存の技術とインフラ、社会経済体系を組み合わせただけでしかない。
似たようなことはAmazonにもいえる。何か今までになかった先端技術がAmazonという会社をつくったわけではない。既存の技術、インフラ、社会制度や企業群の組み合わせを構築しただけで、社会のありようを大きく変え続けている。

二十世紀の終盤になるまでビジョンだのビジョナリーという言葉は使われなかった。そこではビジョンやビジョナリーではなく発明家が工業化(産業化)を推進する大役を担っていた。今までになかった基礎技術、その基礎技術の開発を可能にした科学の進歩があった。両者を合わせて科学技術という複合的な呼び名が当時の社会事情を反映していた。科学者と発明家が社会を牽引していた時代で、社会の成熟度がそこまでだったとも言える。

工業技術の進歩が、物を作る技術から社会や文化の要素まで含めた総合的な開発の段階に進んでいった。この社会状況を一言で言い表したのが、イノベーションだろう。イノベーションは製造業における工業技術や製造技術の開発、企業組織や製造業に留まらず社会の総合的な開発や進化を包括している。

ここで日本のありようについて考えてみる。
(1) 理工の違い
理と工は、ありようからして違う。理=サイエンスは金になるかならないかには関係ない。極端な例をあげれば、数学者の誰かが、難問を言い出して、世界中の数学者が一生をかけて難問の解を求めてきた歴史がある。解を得られたから、あるいは証明できたからといっても、社会経済的には、遠い将来はわからないが、なんの得もない。
サイエンスは金にならないは言いすぎとしても、金になるサイエンスめったにないし、数十年経って、金になるときにはビジネスという実学になってしまっていて、サイエンスではなくなっている。
工=エンジニアリングは実学で、即の利益を目的としている。ここに生活しやすい、豊かな社会を生み出す力がある。

(2) 実学の日本
高度成長をとげて、世界でももっとも発展した工業国になったが、それはどこかのだれかが開発した、使い古された(実用化)されたものの使い方を工夫してきただけでしかない。
島国という自然の境界線が、自分たちが何をどのようにして取り入れるのかという取捨選択を可能にしてきた。インターネットの普及によって境界線がなくなった、あるいは存在感がなくなったような気がするが、伝統的社会常識や日本語という障壁がなくなったわけではない。
経済的な効果を求めえない先端科学技術の開発は、身の丈にあったところまでにして、すでにあるものを組み合わせる実学に特化したほうがいい。そもそも日本人は、太古の昔から他国(人)が一所懸命開発したもの――文化や社会制度、産業技術もなにもかも上手に取り入れて、土着化し実用化することでやりくりしてきたのだ。よく言えば融通無碍、これこそが誇るべき日本の能力と割り切ってしまえば、みえるものが違ってくる。

(3) なにをするかというよりなにをしないか
西ヨーロッパの小国を見ると、彼らがヨーロッパのなかでどのような立場にいるのか、どうしなければ生活を保っていけないのかを日常的に考えていることに気づく。
デンマークのありようを想像してみればいい。あの小さな国で、製鉄やって、造船やって、自動車やって、家電をやって、半導体、食料からエネルギー、……すべては自給しえない。ましてや軍? それを前提として、周辺の人たちとどうやって相互依存の社会をつくれるかという視点からしか、自分たちの存在を規定しえない。
日本が日本であろうとすれば、近隣諸国やアメリカやヨーロッパ諸国と何をどこまで相互依存、時には競合するのか、なんらかの取捨選択をしなければならない。

高度成長期までのように何でもかんでも手を出す時代でもない。まず何をしなければと考える前に、何からは手を引いて他者に任せるのかから考えれば、おのずと何をしなければ、何に特化しなければという景色が見えてくる。相互依存を前提として、普通の人たちにとって、住みやすい国にしていこうと思えば、なにがなんでもしちゃいけないことも、したほうがいいことも自ずと見えてくる。破壊と殺戮の軍需は避けなければならないだろうし、教育や福祉や医療は必須だろう。安定した社会をと思えば、貧富の差は極力小さくしなければならない。そこに疑問や理論の余地があるとも思えない。

既存の科学的な知見や工業技術、社会制度の活用もしきれないのに、マスコミでもあるまいし、なぜ新奇なものを追い求めようとするのか。青い鳥をどこかに探すのではなく、自分(たち)は今までいったいなんだったのか、今はなんなのか、そして将来はどうありたいのか、どうあらざるを得ないのかを自分たちで問い詰めることから始めるしかない。
2019/4/21