IT化―社会をあげての人減らし(改版1)

新自由主義やグローバリゼーションといえば、経済格差の拡大と社会の右傾化を説明できると勘違いしているとしか思えない話を聞くことがある。問題としている社会現象が起きた経緯とそれを可能にした社会インフラの変遷に言及することもなく、お題目のように名前をあげての話、何をどう言ったところで、何の説明になるとも思えない。普通の知恵と、知ろうとする気持ちがあれば、起きていることぐらい、誰の目にも明らかで、聞きたいのはなぜ、どうしてその社会現象が起きているのか、何がその社会現象が起きることを可能にしているのかだろう。
目に見える現象から一歩下がって、社会の上部構造の変化を可能にする下部構造の変遷から起きている現象(問題)を考えてみた。

六十年代から七十年代前半にかけては、せいぜい半導体の進歩による技術革新のとば口に立ったところで、コンピュータは日本語で電子計算機と呼ばれていた。それは神のごとく、まだまだ珍しかった空調の効いた部屋に鎮座していた。話には聞いても、普通の人が目にすることはなかった。ましてや日常生活で欠かせないものになるなど、将来を鳥瞰しえる立場にいた人たちですら、想像するのは難しかったろう。

七十二年に日立精機に入社して、研究所で汎用タレット旋盤の自動化をすすめる設計をしていた。当時工作機械の制御は、リレー(電気機械とでもいうか?)で構成された電気回路によっていた。コンピュータはおろか半導体素子を使うことなど想像もできなかった。 リレー回路は枯れた技術で安心して使えるが、機能も性能も限られている。それでも一台の機械に一人の作業者が必要だったのを、一人で二台三台と使えるようにはできた。春闘が年中行事だった時代で合理化と省力化が叫ばれていたが、電気回路による汎用タレット旋盤の自動化では、二台三台が限界だった。

七十年代中ごろになってやっと事務所のあちこちにコンピュータが出現した。みるみるうちに性能が向上して価格も下がって、マイコンと呼ばれる次の時代を切り開く万能ツールが出現した。当時のコンピュータはそれぞれが自分の周辺機器(たとえばテープリーダーやプリンター)を従えた「鎖国状態の都市国家の君主」のようなもので、孤立した存在だった。
そこにLAN(Local Area Network=ローカル・エリア・ネットワーク)が登場して、都市国家間をデータ通信で接続して、ホストコンピュータという国王による都市国家を管理する王国が生まれた。LANが当たり前になったとき、孤立したコンピュータの時代のフロッピーディスクによるデータの受け渡しをスニーカーネットと呼んで後進性の代名詞のようにつかっていた。それは、こっちの都市国家からあっちの都市国家へと、フロッピーディスクをもった飛脚が走っていたようなものだった。

インターネットが普及するまでの通信は、電話に象徴されるアナログの音声信号の伝送のためのもので、コンピュータ間のデジタル信号の送信のためではなかった。アナログ回線でデジタル信号を送信するためにMODEMなどというコンバータまで開発された。 それが半導体の進化でLANが実用化され、コンピュータ間のデータのやり取りができるようになった。ただ、LANによるデータ通信は、Localという名前が示すように、特定の領域――企業や組織の同じ敷地内や個々の事業所や工場内、上記の例でいえば王国内に限られていた。

戦後長年に渡って経済成長を続け、それにともなって勤労者の賃金が高騰していった。賃金の高騰を相殺すべく電気制御による生産性の向上から進んで、八十年代にはLANに接続されたマイコンとコンピュータを活用した生産性の向上が本格化した。生産性の向上は、負の側面をあいまいにすべく合理化などと呼ばれたが、勤労者の立場でみれば省人化で人減らしにほかならない。しかし当時の人減らしは、個々の機械装置(マイコン)とLANに接続されたコンピュータを活用できる範囲という、個々の企業の個々の組織の個々の工場建屋や事務所のなかまでで、影響は企業内や組織内に限られていた。まだITなどという言葉はなかったが、地域的に閉鎖された一つの王国のなかでの各社各様のIT化で人減らしだった。

インターネットの普及が社会を変えた。インターネットが世界中のコンピュータ間のデータ通信を日常のものにした。あまりにあって当たり前になってしまって、インターネットの恐るべき能力を想像することもなくなってしまったが、それがないときを想像すればわかりやすい。
スマホを考えてみればいい。インターネットにつながっていないスマホなど、使い勝手の悪い携帯電話以下でしかない。スマホと同じように、どこにもつながっていないパソコンがポンと一台あっても、それは個人のメモ帳のようなものにすぎない。人に何かを伝えるには、パソコンという名のメモ帳を持っていってページを開いてという、考えられない作業になる。

インターネットでコンピュータを社外のコンピュータネットワークに接続して、LANの時代には想像もできない生産性向上が可能になった。インターネットによるデータ通信は、各企業の敷地内のLANによる接続とはまったく違った「社会環境」を提供する。コンピュータ間のデータ通信が企業の敷地内に限られていては、アマゾンやATMなど、存在どころか、そんな業務のありようを想像することもできない。インターネットによって個々の企業の枠を超えて、社会全体の生産性の向上を追及する社会インフラが整った。

LANまでの生産性の向上による剰余価値の創出はせいぜい企業の内部の話でしかなかったが、インターネットを活用した社会のIT化が生み出す剰余価値はLANまでのものとは比較することすら不可能なほど大きい。国民国家の制約のくびきからときはなされ、光の速度でデータや情報が世界中を走り回る。実体経済から遊離してあらゆるものを証券化しかねない金融が生み出す膨大な利益、厳しい制約を課さない限りむき出しの資本主義になるのは当然の結果でしかない。それを新自由主義と、あるいはグローバリゼーションと呼んで対症療法のような対策に終始していて望める改善、そんなものでなにが解決できるとは到底思えない。

わかりやすい例をあげる。銀行や金融関係には関与したことのない者の話しで、限れた知識からの想像でしかないが、大きな間違いはないだろう。
1) 計数機(電機装置)が開発された
1−1) 紙幣や硬貨の数を数える係数機によって、「行員」が手作業で数える作業から開放された。計数機は数え終わったところで、数えた数を表示する。「行員」はその表示をノートに書き写して、毎夕紙幣と硬貨の数を集計する。
1−2) 「行員」が集計した結果を電話で本社に連絡する。
2) コンピュータとLANの登場
2−1)計数機にマイコンが搭載され、支店の(ホスト)コンピュータとLANで接続された。計数機が紙幣や硬貨を計数して、計数結果をLANを通して、支店のコンピュータに送信する。
2−2) 支店のコンピュータが支店の営業成績を集計する。
2−3) 「行員」が集計した結果をファックスで本社に連絡する。
3) インターネット登場
3−1) 世界中の支店のコンピュータが営業状態や成績をデータとして逐次本社のコンピュータに送信する。
3−2) 為替レートや与信の審査や融資先の経営状況から、顧客の入出金も企業間の決済も、金融機関相互の裁定もコンピュータが処理する。
「行員」は何をするのか?あるは、何をするために行員がいるのか?その何に「行員」が関与するのを不要にするのが生産性の向上にほかならない。それは銀行一行の話でもなければ、銀行などの金融機関に限定されたものでもない。行政から営利企業や市井の一個人まで包括した社会ありようを変える。
1) と2)、そして3)へと自動化が進んで、人の関与が減って生産性が向上する。それに伴って剰余価値も大きくなる。それぞれ のステージから次のステージに上がるにしたがって、剰余価値の大きくなる割合が大きくなる。
2)までは支店内というLocalな生産性の向上だったが、3)に至って、地球規模で社内外を網羅した生産性の向上が可能になった。

生産性を向上するために新しい技術が開発される。新しい技術の活用によって生産性が向上し、労働者の関与が減る、あるいは賃金の高い専門知識や熟練した作業者を必要としない労働環境が出現する。その労働環境では労働者はインターネットで接続されてはいるが、物理的に近隣にいる必要はない。そのため、かつてのようには労働者を組織化できない。労働組合は往時のような社会的な力にはなりえない。
生産性の向上によって剰余価値は増大するが、知識や熟練を必要としない非正規労働が増えて、労働者の所得は減る。剰余価値を手にする一部の社会層と低賃金労働者(大衆)との所得格差が広がる。

IT化で何をしているのかを知っている一握りの人たちに、ユーザーの立場で便利になったと言っている、あるは職を失った、非正規労働としてしか社会に参加できない大勢の人々がいる。社会を構成している大勢の人たちは変わり続ける社会でユーザーという受身の存在であることを運命づけられている。人々は知らせたいことだけを知らされるだけの、大衆操作される対象になり下がる。

技術は必要に応じて開発されるものでしかない。技術が社会を変えるが、その技術の開発を思いつくのは人で、人がつくる社会の要望(もっと便利に)が技術開発を促す。技術は本質的に思想的にはニュートラルなもので、それを何に、どう使うかに思想がからんでくる。
もっと便利に、もっと快適に、もっと簡単に、もっと早く、もっと間違いなくはいいが、社会をどうしていくのかという思想のないところに、まともな社会があるとは思えない。社会を決めるのは技術ではない。それは人文科学の領域の知識であり良識で、技術教育以上に人文科学の教育を充実しなければならない。

最後に一つ注意しておきたい。すでにコンピュータの活用で人間の知的労働さえもが自動化されてきているが、新自由主義もグローバリゼーションも所得格差の拡大も社会の右傾化もAI(Artificial Intelligence)=人工知能の活用からもたらされたものではない。
AIはまだまだ開発中で、特定の領域の特定の作業に応用できるようになってきた初歩的な段階にすぎない。将来それをどう活用して、どのような利点を享受できるのか、あるいはそれに振り回されるのかは人々の知識と良識が決めることでしかない。
今目の前にある新自由主義もグローバリゼーションの扱いもあいまいなままに、近い遠いの違いはあるにせよ「将来」のAI談義。それは談義だろう。
2018/8/5