生産性の向上と経済格差の拡大(改版1)

生産性が向上すれば必然として経済格差が拡大する。拡大し続ける格差を、このまま放っておくわけにもいかないが、さりとて生産性の向上を求めるなとも言えない。どうしたものかと考えていることも多いし、どう考えてもこれしかないだろうと思っていることもある。つらつら考えてきたことを整理してみた。

1.生産性
人類の歴史は人間一人当たりの生産性の向上を求め続けてきた歴史でもある。狩猟採集から牧畜や農耕へと社会が多様化していくなかで、食料を求めてさまざまな工夫が重ねられた。定住農耕社会において生産性の向上がはかられた。農耕具は石器から掘り棒しかなかった時代から、鉄器の農具や牛馬の利用、そして農耕機械の発明から灌漑設備へ。生産性の向上が富の蓄積を生み、驕奢な文明が発達した。
生産性の向上を求めるというと、資本主義だからという議論に発展する人たちもいるが、生産性の向上は人類が太古の昔から営々と続けてきたことで、即資本主義に結びつけるのは視点をあらぬ方向にずらしかねない。

1)物は作ってきたけれど
人類の歴史から特殊日本の歴史に視点を移します。ちょっと暗い話に聞こえるかもしれませんが、事実でしょうし、それが決して悪いことばかりではないどころか、見方によっては、日本人の稀有な特質かもしれません。

明治維新以来百年以上かけて生産性を上げることによって生活水準を上げてきた。生産性の向上は、欧米で創り出された製造技術や管理手法を取り入れて、欧米が作り上げたものの物まねによって実現された。作るものの見本があって、作り方の手引きまで用意されていた。後は、まじめにいいものを作ろうという気持ちと努力を生かす社会体制があれば十分だった。

欧米から導入した技術や管理手法を使って即の成果を求め続けて、世界第三位の経済規模を誇る工業国になった。その過程で、極端に言えば、面倒な科学的知見や工学理論などどうでもいい、簡単に使えて金になればという上滑りの文化が醸成された。
大量生産を可能にした画一化と機械化による生産性が判断基準とされ、即戦力のある均一化した、使い易い人材の育成が教育に求められた。先達の上滑りの成功を見ながら成長した次の世代は、自らも上滑りすべく、与えられた課題を与えられたやり方で限られた時間内に上手に処理することを機械的に学んできた。
規律正しく使い易い人材は大量生産を基盤とした製造業では力を発揮するが、技術やビジネスモデルも含めた開発を主体とした経済体制では力にならない。
物真似でうまくやってきたことが、次の進化への努力を評価しない社会常識を生み出した。高度成長は歴史だが、画一化され、即の成果を求める風潮は現在進行形の社会の奇形だろう。

もっとも千年単位のスパンでみれば、日本人は、いつもどこかで日本人ではない人たちによってつくられた思想や社会体系から技術からなにからなにまで成果物として採り入れて、使いやすいように使って成果を出し続けてきた調子のいいタマで、上滑りはこの百年や戦後に始まったことじゃない。

発明と戦争の二十世紀も終わって、社会の牽引役が科学者や発明家からビジョナリーに引き継がれた。豊な日常生活を実現する要素技術は出そろっている。出そろったものを上手に組み合わせれば、生産性を上げられる時代になった。スティーブ・ジョブスやジェフ・ベゾスがそれを証明している。ジョブスはiPod、そしてiPhoneをもってしてAppleを再生したが、iPodもiPhoneも普及した要素技術の組み合わせでしかない。ベゾスはビジネス(新しい仕事の仕方)を作ったが、物としてなにを作ったわけでもない。ここに、必要なものはなんでも取り入れてきた日本の(誇るべき?)融通無碍の文化の意味がある。

2) あらためて生産性とはなにかを考えてみる
生産性は、一般に次の式で表される。

生産性=成果物/投入リソース(生産手段+労働)

同じ成果物を得るのに投下リソースを半分にできれば、生産性が二倍になる。同じ投入リソースから二倍の成果物が得られれば、生産性を二倍にできる。

科学技術の発展とその実用化で、リソースに占める生産手段の割合が大きくなり、労働の占める割合が減る――これが労働生産性の向上に他ならない。生産性の向上は生産手段の向上から生まれる。スポーツの記録をみればわかるように、人間の身体能力はそうそう向上するもじゃない。

もし、生産手段の改善が停滞したら、生産性を上げるためには労働コストの削減しかない。
労働コストの削減のために、コストの低い労働者への置き換えがすすむ。賃金も含めた全雇用コストが半額の人たちに置き換えれば、半分の労働コストでそれまでと同じ成果物が得られ、生産性を向上できる。
高度成長期までは、生産性が上がれば生活がよくなると思っていたが、いやま生産性を上げるために労働コストの削減が進んで、勤労者が貧しくなっている。可処分所得の減少から消費が停滞する。若者の乗用車離れや軽自動車への移行がそれを端的に現わしている。今、日本がこのデフレから抜けらないでいる。

労働コストは、生活コストと賃金の安い地方(しばし海外)に移転でもしなければ、大きな節減は難しい。であれば、労働コストを既定として、成果物の価値を上げられないかという別の視点がでてくる。
成果物の価値は顧客との力関係で一割や二割簡単に変わる。成果物をもっと高く売れれば、客にもっと金を払わせれば、たとえ労働コストが少々高くなっても生産性が上がったことになる。
独占や寡占や談合、あるいは業界標準などによって、また緊密な取引関係(饗応や贈収賄)や人的交流(顧客の不要人員の再雇用)などで顧客を取り込めればという癒着が起きる。エコ減税や産業奨励政策のような税制による生産性の向上は次項目の範疇。

2-1) 企業経営からみた生産性
企業経営にとっての生産性は、成果物や投入リソースから直接には引きだせない。企業活動の目的は利益を得ることだから、労働生産性より、投下資本に対する利益の多寡の方が重要になる。財務の視点。
これを大雑把に表せば、次の式になる。

資本の生産性=利益/投下資本=ROE (Return On Equity)

今仮に十億円の資金(家賃や人件費も含めて全ての費用)を運用して一億円の利益がでたとしよう。これを二億円にできれば、資本の生産性が二倍になるし、十億円では足らずに二十億円かけたら、生産性が半減する。

2-2) 働く人にとっての生産性
生産手段の改善や労働密度を高めて成果物が二倍になったとしても実質所得が変わらなければ、働く人の視点からみた生産性は上がっていないどころか下がったことになる。
新聞読んで会議で能書きたれて高給とってる天下り官僚や民間企業のキャリア組の個人の生産性は高いが、労のわりに所得の少ないノンキャリアの個人の生産性は低い。では個人の生産性の向上を求めて能書きたれの高給とりを増やしたらどうなるか。組織の生産性が落ちる。
組織の生産性が落ちれば、競争的な市場では組織は淘汰される(可能性が高い)。独占や寡占、行政サービスのように競争にさらされない組織では、組織の生産性を向上しようとするインセンティブは働かない。そこでは組織の生産性を考慮することなく、働く人(と経営者も含めた関係者)の生産性向上へのインセンティブが肥大する。
「水道民営化に思う」http://chikyuza.net/archives/96396を参照。

The Guardian(2018年7月29日)に興味深い記事がある。
The Guardianはイギリスのもっとも信頼のおける新聞のひとつ。
『Almost 80% of US workers live from paycheck to paycheck. Here's why』
https://www.theguardian.com/commentisfree/2018/jul/29/us-economy-workers-paycheck-robert-reich Robert Reich(ロバート・ライシュ):アメリカの経済学者(カーター政権の労働大臣)の論考で、この論考に目を通すだけで、問題の本質を鳥瞰できる。

「アメリカの勤労者の八割方は、なんとか次の給料まで食いつなぐような生活をしている」
「現在のアメリカの一般的な勤労者の所得は44,500ドル(簡単のため一ドル百円とすると、445万円/年で、四十年前とたいして変わらない。経済成長によって生み出された富のほとんどが経営上層部と金融関係や投資家やデジタル機器関係会社の所有者に占有されている」

アメリカの名目GDPの推移―1980年から2018年
1980年: 2,862.48(二兆八千六百二十億ドル)
2018年(予測): 20,412.87(二十兆四千十二億ドル)
(単位:10億ドル)
2018年のGDP(予測)は、1980年のGDPの七倍以上ある。三十八年間でGDPは七倍。でも勤労者の所得は大して変わらない。誰が増えた分を手にしたのか? 勤労者以外の人たちの所得が増えたということに他ならない。
マクロの視点でみれば、生産手段の近代化によってGDPは七倍になったが、勤労者からみた生産性(名目)は四十年近く変わらない。三十八年間のインフレを考慮にいれると、実質所得は下がっている。

<出典:世界経済のネタ帳>
http://ecodb.net/exec/trans_country.php?d=NGDPD&c1=JP&c2=US&c3=CN

注:米国の人口増加
1980年には二億二千七百万人だったの人口が、2018年には三億二千八百万人に増えている。三十八年間に人口は一・四倍になった。
<出典:世界経済のネタ帳>
http://ecodb.net/exec/trans_country.php?type=WEO&d=LP&c1=US&c2=JP

2.とんでもない勢いで生産性が向上し続けている
IT化―社会をあげての人減らし
新自由主義やグローバリゼーションといえば、経済格差の拡大や社会の右傾化を説明できると勘違いしているとしか思えない話を聞く。問題としている社会現象が起きた経緯とそれを可能にした社会インフラの変遷を追わなければ、何の説明にもならない。いかにしてその社会現象が起きているのか、何がその社会現象が起きることを可能にしているのか。社会の上部構造の変化を可能にする下部構造の変遷から起きている現象(問題)を考えてみる。

もっとも分かりやすく、また影響が大きいのは半導体の進歩とその使い方の進化にある。
六十年代から七十年代前半にかけては、せいぜい半導体の進歩による技術革新のとば口に立った(トランジスタラジオ……)ところで、コンピュータは電子計算機と呼ばれていた。それは神のごとく、まだ珍しかった空調の効いた部屋に鎮座していた。話には聞いても、普通の人が目にすることはなかった。ましてや日常生活で欠かせないものになるなど、将来を鳥瞰しえる立場にいた人たちですら、想像できなかったろう。

コンピュータとその周辺の進歩
1)スタンドアローンの時代
七十年代中ごろになってやっと事務所のあちこちにコンピュータが出現した。みるみるうちに性能が向上して価格も下がって、ワンチップマイコンと呼ばれる次の時代を切り開く万能ツールが出現した。当時のコンピュータは機械装置に搭載されたとしても、それぞれが自身の周辺機器(たとえばテープリーダーやプリンター)を従えた「鎖国状態の都市国家の君主」のようなもので、孤立した存在だった。コンピュータ間のデータのやりとりは、人が歩いてまわる、俗に言われるスニーカーネットに頼っていた。

スタンドアローンの時代

2)LAN―都市国家を包括した王国の誕生
そこにLAN(Local Area Network=ローカル・エリア・ネットワーク)が登場して、都市国家(コンピュータ)間をデータ通信で接続して、ホストコンピュータという国王による都市国家を管理する王国が生まれた。
LANの導入による労働生産性の向上は、LANに接続された機械装置(マイコン)とコンピュータを活用できる範囲――個々の企業の個々の組織の個々の工場建屋や事務所のなかまでで、データ通信は企業内や組織内に限られていた。地理的に閉鎖された一つの王国のなかでの各社各様のIT化による生産性の向上――人減らしだった。

LANの登場

3)インターネット―地球規模で生産性の追求
インターネットが世界中のコンピュータ間のデータ通信を日常のものにした。あまりにあって当たり前になってしまって、インターネットの恐るべき能力を想像することもなくなってしまったが、それがないときを想像すればわかりやすい。 インターネットにつながっていないスマホなど、使い勝手の悪い携帯電話でしかない。スマホと同じように、どこにもつながっていないパソコンがポンと一台あっても、それは個人のメモ帳のようなものにすぎない。人に何かを伝えるには、パソコンという名のメモ帳を持っていってファイルを開いてという、考えられない作業になる。

インターネットによって個々の企業の枠を超えて、地球規模の社会全体の生産性の向上を追及する社会インフラが整った。インターネットを活用した社会のIT化が生み出す生産性の向上はLANまでのものとは比較しようのないほど大きい。
国民国家の制約のくびきからときはなされ、データや情報が世界中を走り回るグローバリゼーションが始まった。
コンピュータ間のデータ通信が企業の敷地内に限られていては、アマゾンやGoogleなど、存在どころか、そんな業態のありようを想像することもできない。

インターネットの時代

アメリカがベトナム戦争やオイルショック以降垂れ流してきたドルが、実体経済で運用できる量をはるかに超えて浮遊資金になっている。そんな資金を持ち込まれても、おいそれと運用先はみつからない。それでも金融機関は金利を払わなければならない。しばし悪者扱いされるが、金融機関も楽な商売ではない。金利を稼ぎ出すために、ノーベル賞級の学者まで動員して、運用先をつくりあげた。いつの時代に行き過ぎはつきもので、あらゆるものを証券化してでも利益を追求しだした。厳しい制約を課さない限りむき出しの金融資本主義になるのは当然の結果でしかない。

例:クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)
CDSには販売量に上限がない。通常の債券取引では、当然ながら、発行総数以上の債券を売ることはできない。ところが、債権が不履行になるかならないかを賭けるだけの(債券の保険)CDSには、発行総数に制限がない。CDS取引は債券を対象にしてはいるが、債券に縛られていないため、好きなだけ売れる。

本質的な課題は、浮遊資金をどう消却するかなのだが、解決案を聞いたことがない。
ゴミ集め専用船でも作って、世界中の海からゴミを集めて焼却して発電でもするか。いくら発電したところで、投資を上回るリターンはないから、資金はどんどん減っていきく。

3.生産性の向上を目指して技術革新、それが必然として経済格差を生む
生産性を向上するために新しい技術が開発される。新しい技術の活用によって生産性が向上して、労働者の関与が減る、あるいは賃金の高い専門知識や熟練した作業者を必要としない労働環境が出現する。その労働環境では労働者はインターネットで接続されてはいるが、物理的に近隣にいる必要はない。そのため、かつてのようには労働者を組織化できない。労働組合は往時のような社会的な力にはなりえない。
生産性の向上によって利益は増えるが、知識や熟練を必要としない非正規労働者による定型業務が増えて、労働者の所得が減る。利益を手にする一部の社会層と低賃金労働者(大衆)との所得格差が広がる。

新しい技術を活用して生産性の向上を考え、その考えを実現するのは社会の一部の人で、その一部の人たちの経済的な立場を強固なものにするが、それ以外の人たちの立場を脆弱なものにする。生産性の向上が大きければ大きいほど、強固にされた立場と脆弱になった人たちの経済格差は大きくなり、社会の二分化が進む。技術革新と二分化が繰り返されて、社会を構成している大勢の人たちは便利になった社会で一利用者、非正規労働者という受身の存在になる。

例:自動改札
自動改札が導入されれば、切符切りの仕事がなくなる。改札で切符を切っている人たちから自動改札の考えはでてこない。自動改札のトータルコスト(開発+導入+運用+保守+利息)を、削減できる人件費何年分で償却できるか、そして低減された運用コストがもたらす利益が、開発に投資するかしないかの判断の指針になる。判断するのは経営陣。経営陣に資金を提供するのは金融機関。開発+導入+保守は技術陣。切符を切っていた人たちは、別の単純労働に押しやられる。
その他の身近な例
ネットバンキング、ネット証券、ネット通販、ネット配信(新聞や雑誌、映画など)、電子書籍、情報提供、各種サービス、フィッシング(なりすまし)詐欺、ランサムウェア(マルウェアを使った脅迫)、マルウェア(ウィルス……)、プロパガンダ、ネット上の誹謗中傷……。

技術は必要に応じて開発されるものでしかない。技術が社会を変えるが、その技術の開発を思いつくのは人で、人がつくる社会の要望(もっと便利に)が技術開発を促す。技術は本質的に思想的にはニュートラルなもので、それを何に、どう使うかに思想がからんでくる。
もっと便利に、もっと快適に、もっと簡単に、もっと早く、もっと間違いなくはいいが、社会をどうしていくのかという思想のないところに、まともな社会があるとは思えない。社会を決めるのは技術ではない。それは人文科学の領域の知識であり良識で、技術教育以上に人文科学の教育を充実しなければならない。

4.対策?
日本で日本の仕事に終始していたのでは高い付加価値を生む職業に就くのが難しい。
実務経験からだけでは生産性を向上する職業に必要とされる能力を培えず、数学と英語の基礎に加え、高い付加価値を生む専門知識の習得が必須になった。
高い付加価値を生む高度サービス産業に向けた産業構造の改革の必要性が説かれているが、高い付加価値とはとりもなおさず生産性の向上と、その結果としての経済格差の拡大に他ならない。
どうすれば、生産性の向上を経済格差の縮小に活用できるか?
個人としては、生産性を向上する側に立つ能力を培う努力でなんとかなるにしても、社会層としての対策はあるのか?

p.s.
こんなことを書けば、「そんなことは資本論に書いてある」という声が聞こえてきそうだ。
真摯に受け止めはしても、多少の驚きは隠せない。
へっ、「ア、ソウデスカ」
でも、実体経済が決済に必要とする金の、レバレッジもいれたら、もしかしたら数千倍にもなる浮遊資金がインターネットで飛び回ることなど考えた人、マルクスの時代にいたんかなと素朴に思ってしまう。
そこは天才マルクス、そんなことはオミトオシだそうだ。
なんか中世のカソリックのご教義に似たものを感じるのは不勉強のせいなのだろう。
ノストラダムスじゃないだけ、まあ、いいか。
2020/1/12