官見鳥を超えるには

経済政策はもとより財政や軍備も医療にしても環境関係や教育関係などの社会政策に関わることで、大学や研究機関の財政学者や経済学者が中央官庁と一線を画して、総括的で具体的な政策を提言できる可能性があるのかと考えると、どしても否定的な答えしかないような気がしてならない。

自然科学の領域であれば、大学や研究機関の独自の研究や研究成果もあり得るが、こと行政にからんだことになると、徹底した情報公開がなければ、市井の研究者が寄与できるケースは極端に限られているとしか思えない。基礎データなしでは、定性的なことならまだしも、計量的に施策可能な政策の立案などできるわけがない。

官僚は政府や巷の企業や人々の生活がどうであれ、自分たち組織と自己保全を最優先するだろう。そんなことはない、社会に国民に奉仕するのが官僚としての務めであると固く信じている立派な人もいないこともないと思いはするが、それは個人のレベルまでで、組織になったとたん、組織保全の力学が圧倒的な力を発揮するのを避けられるとは到底思えない。

となると、学者や研究者がとり得る立場は大きくわけて三つになる。まず誰の目にも見えるのは、御用学者だろう。官僚(しばし行政)のご都合に合わせた、時には多少スパイスのきいた批判めいたことを混ぜ込んだにしても、本質的には官僚の意にそった政策を提言することで禄を食んでいる。そもそも提言の根拠とするデータが官僚のご都合で下賜されるものでしかないから、官僚の意とすることから外れたくても外れようがない。何とか諮問委員会にご列席の高名な先生方は、立派な御用学者にすぎないだろうが、巷の一般大衆からは畏敬の念すらもって見られている。

望むと望まざるとにかかわらず、御用学者の道をはずれて野に下った学者や研究者が二つに分かれる。限られた公知の事実から状況を順当に推察して、官僚とその取り巻きの御用学者のご高説に反論し続ける人たちがいる。この人たちのお陰で、官僚支配の行き過ぎを抑えているのが日本に限らず世界のほとんどの国の現状だろう。
なかには不本意に野に下ってしまっただけで、登用の日を夢見ていたのだろう、ある日突然手の平を返したように、喜々として取り込まれる才人もいて、驚かされることもある。

反論するのも面倒、あるはそこまでの反骨もなく、身の回りの小さな世界に留まって個人的あるはそのささやかな延長線で穏やかな生活を送ればと諦観しきった学者や研究者もいる。

官の意に沿った学者や研究者以外にはたいした日も当たらない社会で、次の時代を切り開く思想なり社会体制を思索し主張する人は尊敬するが、当然のこととして、ニッチとしての存在でマスのなかには見当たらない。
インターネットを活用した情報発信交換手段が日常のものになって、マスにはいられない尊い希人をニッチの枠から引き出して、新しい形のマスを形成できるようになってきた。欲を言えばきりがないが、社会インフラは十分整っている。

問題は、学者や研究者の発言が仲間内の用語と文体で語られていて、一般大衆の日常生活のなかで受け入れられるレベルに達していないことにある。学術用語を駆使しなければ、人々の日常生活に関係する政策論議をしえないのは、一般社会から遊離したところでしか棲息できない知的あるいは生理的な欠陥にほかならない。
その欠陥を解決できるのは、官僚でもなければ政治屋でもない。学者や研究者の志向と指向が問われているだけで、何も特別なことはない。一般大衆から学ぶ意思や熱意があるのかどうかだけだろう。
2020/6/7