未だに切捨て御免(改版1)

沢木耕太郎の『深夜特急』にインドの街でみたカーストの悪弊の話があった。カーストの下の人が荷物を運んでいるところにカーストが上の人が不注意でぶつかって、荷物が道に散らばってしまった。(なにをもってしてふつうというのかとう疑問は横に置いておいて、) ふつうの社会の常識では、ぶつかった人が誤るところなのに、カーストが下の人が上の人に平謝りに謝っていた。そのありさまを目の前にした著者の驚きが鮮明に描かれていた。

今の日本の社会では信じられない(?)光景だが、日本でもつい百年やそこら前には似たようなことが、ふつうというか社会の規範とされていた。士農工商の身分制度のもと「切り捨て御免」がまかり通っていた。文字通り、町人や百姓にどれだけの理があったところで、武士が絶えがたい無礼と思えば、問答無用と無礼をはたらいた人を切り殺す権利が武士に与えていた。

「無礼」を働いたという証拠がないと、武士も処罰を受ける可能性があったが、なにをもってして「無礼」とするかを判断するのは、支配階級である武士の一存であることに変わりはない。西部劇にみる護身用として拳銃を持ち歩くのと同じように武士には帯刀が認められていた。護身用というと自己防衛の響きがあるが、刀の使用目的は人を殺傷すること以外にはない。持ち歩くことによる権力の誇示という外見だけにしても、そんなぶっそうなものを持ったのがわがもの顔で、しばし酔っぱらってうろちょろしているところでの生活など、戦争のない(日本では)、そこそこ平和な時代しか知らないものには、ちょっと想像できない。

「切捨て御免」などという人の生命すらが、支配階級の胸先三寸でどうにでもされてしまうような社会では、農民や町民の自由意志では何をしようにもできない制約がこれでもかというほどあっただろう。似たようなことが人種差別や宗教を基礎にした階級社会でもいえる。どんな事情があろうが自分の思うままに命じる権利がある社会層と、命令されればできるできないにかかわらずしようとしなければならない社会層に社会が分断されている。世界にはそんな常識がまかり通っている国や地域が残っている。そんなところに駐在員として派遣されると、日本にいては想像もできない社会的な規範に右往左往することになる。

知り合いの一人が財閥系の名門企業に転職してインドに赴任した。面接ではシンガポール駐在と聞いていたのに、プロパーにとられて誰も行きたがらないインドに回されたと愚痴っていた。シンガポールと香港で現地法人の社長までした人だが、インドではなかなか仕事にならないらしい。似たようなことをアメリカのコングロマリットでもオランダの名門と言われた会社でも経験していたから、話の背景まで想像できる。

どこにいっても例外はあるし、多くのことが白と黒との間に広がったグレーのどこかという程度の差でしかないこともあるが、日本にいて、テレビか新聞に頼っていたのでは上っ面の情報までで終わってしまう。日本から一歩出て、差別が社会の文化の骨格をなしているとろに踏み込んでいかなければ、漠然とした風景までしか見えない。折角の機会を手にしても、見ようと努力しなければただの通行人にしかなれない。カーストや似たようなものによる身分社会のしがらみは、どこにでも転がっている。

アメリカの会社でもオランダの会社でもカーストによる差別で呻吟している同僚を目にした。二人ともインド南部の出身で苗字がない。一目で人種が違うことが分かる。差別されつづけてきたことから生まれる誇りもあるのだろう、一人は胸を張ってオレはインド人じゃない。タミール人だと言っていた。出自も低いし、大学も出ていない。滅多に手にすることのない、目の前のチャンスをなんとしてでもものにしようと頑張っている若いエンジニアだった。いくらやったところで、エンジニアリングという体のいい肉体労働、しばしIT土方と呼ばれる定型業務でしかない。やることを決めるのはアメリカの本社に巣食ってるインド人のマネージャであり、実績として評価されるのは、オランダの本社の出先としてアジア市場を統括するシンガポール支社のキャリア組のインド人。現場のエンジニアが報われることはない。キャリア組のインド人は母国の名門大学を卒業してからアメリカかイギリスの名門私立大学で修士までいっている。口にしたのを聞いたことはないが、鷹揚さをまとった話し方の背後にはインドのカースト制度がある。アメリカ人やオランダ人の臣下として、現場の同国人を使い捨ての下位カーストとしか扱わない。使えるうちは、酷使に耐えるうちは使い切る。都合が悪くなれば、切り捨て御免そのままに切って捨てる。使い捨ての補充はいくらでも利く。

カーストと聞くと、遠いインドの話で、遅れた世界だと人ごとのように思っている人が多いだろうが、ちょっと気をつけてみてみれば、身の回りに名前は違うが日本のカーストがいくらでもある。あまりに日常のことで慣れ親しんだ風景になってしまって気づくことすらなくなってしまったということでしかない。
日本でも出自がものをいう世襲社会が厳然として残っているし、学歴社会の軛に呻吟している人も多い。在日の人たちや部落出身者への差別も続いている。そこでは権威なのか権力なのか、そこから生まれる支配体制の一存で、立場の弱い人たちの基本的な生活すら破壊する解雇や左遷が、言ってみれば現代版切り捨て御免が当たり前の日常としてある。

沢木耕太郎の『深夜特急』にでてくるカーストの上の人をトランプや独裁創業オーナー社長に、そして下の人をホワイトハウスの雑用係やうだつの上がらない下級職員に置き換えて、なにが起きるか想像してみればいい。
2020/9/16