気候風土と気質(改版)

日立精機に就職した七十二年には高度成長の陰りがみえてきていた。翌七十三年にはオイルショックで工作機械の需要が激減して、残業規制につづいて帰休制が始まった。ご用組合にできることは、国民春闘の尻馬にのって旗を振るぐらいだった。小川ローザのテレビコマーシャルに代表されるモーレツが消えて、中堅社員の話にも覇気がなくなっていった。
七十四年の参議院選挙で走り回っていたところにソルジェニーツィンの『収容所群島』の突風が吹き荒れた。ソ連がいったいどうなっているのか気にはなったが、働く人たちが主人公だという社会主義の理念になんの疑問も持たなかった。過激化していった学生運動の外縁の先にいたことが幸いしたのだろう、種火は残った。それは、ソ連が自壊しても、ウクライナへの侵略が始まっても変わらない。ただ理念の基にある人間社会のありようについての考えは若い頃とは違う。家庭に電話が普及しだしたころと誰もがスマホを持っている時代が同じであるはずがない。技術も変われば社会も変わる。見聞きすることも、見聞きする自分も昔とは違う。それなりに社会経験も積んできて、二十代と同じってことのほうがおかしいだろう。

先月『サイゴンから来た妻と娘』近藤紘一著を読んでいて、独身寮で話題となっていた話と転職した先で聞いた話を、そして後年タイとインドネシアに遊びにいって目にした社会のありようと理想として受けついできた理念のズレをそのままに古希を過ぎてしまったことに忸怩たる思いがある。

『サイゴンから来た妻と娘』から引用する。ちょっと長すぎるが、端折る能力がない。ご容赦を。
「東南アジアの社会は一般に『軟構造』の社会だといわれる。近代国家の実質となる各種の制度や秩序が、まだ末端の日常生活を管理しきっていないということだろう。当然、そこでは、人々の生活や行動は、画一化されていない。人々は、勝手にふるまえる状況にある。少なくとも、制度や秩序のスキ間を自分の裁量で埋めていくだけの余地がある。しかも南部ベトナムは他人の力を借りなくても楽に暮らしていけるだけの豊かな土地柄だ。社会機構の面からも、風土の面からも、自由な精神(あるいは個人主義といいかえてもいい)が、比較的、肩肘張らずに市民権を主張できる環境なのだろう」

「近代国家を支える制度とか秩序とかいったものは、本来、個々の人間にとって窮屈なものであるはずだ。私たちは、全体を守り、それによって個々の人間を守るという理屈で、これら窮屈なものを受け入れている。そして、現にこの理屈にのっとり、各種の制度は人々の行動様式に一定のルールを敷き、秩序や権威は価値体系を定めて人々の選択、判断を指導する」
「このあたりから、一種の逆転現象も起こる。人々は、制度や秩序を、非の打ちどころのない基準として、これらを参考に生きることに慣らされてしまう。いってみれば、よりかかって生きるようになる。本来は便法であった、これら窮屈なものが、次第に絶対化され、独自の生命力、支配力を持ちはじめる。この結果、組織はそれによって、表面的にはダイナミズムを発揮するだろう。モーレツが美徳になれば、国民はそれが実際に自己の人生にどれほど利するかは考えず、やみくもに働く。GNPは伸び、輸出は増進し、国は経済大国になるかもしれない。そして、便法が一人歩きするのに比例して、もともとはその便法の主人であったはずの人間の自由な心は発露の場を失い、萎えていく」
「皆といっしょに右向け右をしていれば、世間も人並みに扱ってくれる。余りうるさく異論を唱えるものがいたら、衆をたのんで押しつぶしてしまえばいい。しかも人々は、自分を自由だと感じることができる。権威は自らの存在にとって無害の自由に対しては寛容だから」
「自由を享受し、保護され、しかも自ら判断、選択を下す必要もないのだから、これはこれで気楽な状況だろう。私たちがはたからみればファッショとしかいいようのないような、がんじがらめの組織社会、管理社会に生きながら、結構、満足して日々をおくっているのは、この気楽さを好む習性からのなのかもしれない」


日立精機には我孫子の本社工場の他にもう一つ習志野市の実籾に工場があった。工場にはそれぞれ独身寮があったが、就職する三年前に、どちらの工場にも通勤できる場所にということで、東武野田線の逆井駅から徒歩二十分以上かかる陸の孤島に新しい独身寮をつくった。二百人以上収容できる規模で高専卒以上の本社採用を収容する施設だった。全国から集められた二十代半ばでみんな若い。そこには独身貴族と揶揄された高度大衆消費時代の空気が満ちていた。寮にいる限り、エンゲル係数などないも同然の生活で、給料のほとんどが飲み食いと遊びに消えていった。テニスやゴルフにくわえて、夏は海に冬はスキーに、そして何年ものローンで車を買いこんでが当たり前の生活だった。
雑誌かテレビが出所だと思うが、先輩たちのあいだで、今になってみれば、どうでもいいことが話題になっていた。アメリカだかヨーロッパだかからバケーションで南の島にいって、現地の人たちの労働意欲のなさに呆れて言った。「俺たちみたいにきちんと仕事をしていれば、こうしてバケーションにもこれるんだから、あんたたちもしっかり計画を立てて、時間を守って働けば、俺たちみたいにバケーションに……」
それを聞いた現地の人たち、最初何を言われているのかわからなかった。なんどか似たようなことを聞いているうちに、言われている事に気がついた。ちょっと控えめの口調で言い返した。「そうですよね。あんたらは一所懸命働かないと、バケーションに来れないんでしょうね。それも半月とかひと月でしょう。俺たち、あんたたちのようにあくせくしなくても、食い物にも住む所にも困んないだよね。あんたらが楽園だって言ってるところで生まれて育って、住んでんだから」

転職した先に東洋エンジニアリングのOBがいた。東南アジアの石油化学プラントの建設に携わってきた人で、多分二度目か三度目の奥さんがフィリピンのミスなんとかだったこともあってか、駐在員の知識を越えた現地の人々の日常生活にも明るかった。毎晩遅くまで残って作業をしていたときに、しみじみと口にした話が忘れられない。「あっちじゃ、マンゴー食べて、裏の空き地に種を捨てておいたら、いくらもしないうちにマンゴーがなっちゃうんだよ。なんせ気候はいいし、土地も肥えてるから、日本のように神経質になることもない。みんな自然に生きてるんだ」「そんなところで、掘れば原油が出ちゃったら、そりゃ労働意欲がどうのこのうのと言う気にもならなくなっちゃうし、そんなこと言ったら、あいつおかしんじゃねーかって話になっちゃう」

八十年末のことだからもう、三十年以上も前になるが、新婚旅行にインドネシアに行った。二年前に日本の旅行会社のパックツアーでタイにいって気がついた。契約したのは日本の大手旅行会社だが、添乗員が付いてくるわけでもなし、行った先々ではそれぞれ地元の旅行会社に丸投げだった。日本の旅行会社は日本で窓口業務をしているだけで、観光旅行の実の部分にはなんの関与もしていない。大手旅行会社に中抜きされるのであれば、インドネシアを専門にしている旅行会社にすれば、差っ引かれる中抜きも減らせるんじゃないかと考えた。翻訳仲間のアメリカ人に訊いたら「海外旅行にいくのなら、大使館に電話して行き先を専門としている代理店をいくつか紹介してもらって、カスタム旅行の案とその見積を取って比べた方がいい」えぇー、大使館に電話かよーとためらったが、電話して要件を伝えたら、なんでと思うほど親切に代理店を三軒紹介してくれた。女房とふたりで三軒回って、大手旅行代理店のパッケージツアーの料金でカスタム旅行を組み上げた。現地では大きなアメ車に運転手付き。運転手にこういうところに、どこか気の利いたところは、飯屋は、お土産屋はと相談すれば、さっさと走っていってくれた。
ある日、ジョグジャカルタの郊外をぬけて田舎道を走っていたら、突然見渡す限りの田んぼがでてきた。驚くことに、田んぼが三つの区画に分かれていた。もういくらもしないうちに刈り取りだろうという区画の隣に青々と成長している田んぼが、そしてその先には田植して何週間でもなさそうな田んぼが広がっていた。小学校の社会の教科書にあった二毛作の説明に感心した記憶あるが、そこは広大な三期作の田んぼだった。村に入ったらお祭りなのか人が集まっていた。ガイドに連れていかれたら、オヤジさんたちがしゃがみ込んでワイワイやっていた。小柄なおじさんの背中から覗くようにしてみたら闘鶏だった。あちこちの村で人が集まって小さなお祭りらしきものをしていた。数日農村部を車で走ったが、どこにも働いている人がいない。なにか作業らしきことをしている人も目にしたが、雑談しながらのんびりしたもので、日本とは違う。
何を見ても驚いているのに気がついた運転手がいった。「ここじゃ男は毎日ぶらぶらしているか、闘鶏で騒いでいるか、お祭りで…、でも野菜でも果物でも、特別何をすることもなく、勝手に育つから。仕事ったってしれてる。朝ちょっとやって昼飯食ったら、もうだらだら、遊んでるようなもんだから……」

ここまで気候風土に恵まれていたら、冷感地帯のように几帳面に計画をたててという生活にはならないだろう。温帯の日本なら山に立てこもってなんてのもありだろうけど、北方ヨーロッパで山に立てこもったら餓死するか凍死する。
地域社会が必要とする社会的、道徳的規範が人々の集団生活を規制する規則になって、そこから成文化した法律になる。それを体系立った思想や哲学が精緻化してゆく。でもどれも気候風土から必然として生まれる人々の気質と無縁じゃないだろう。厳しい自然環境のなかで育まれた思想や哲学を穏やか過ぎるほどの気候風土に恵まれたところに持ち込んでも、そのまま根づきはしないだろう。
日本は太古の昔から異文化を取り入れて土着化することで独自の文化を育んできた。仏教にしても儒教にしても、律令制度にしても、文字や思想も時々の都合で取り入れたいところだけを、都合よく変形させてきた。明治以前と以後では大きく違うし、戦前と戦後、さらに高度大衆消費社会が当たり前になって、人々の意識も大きく変わってきた。
厳しい環境から生まれた文化や思想は論理的に体系建てられていることもあって、どこへでも移植できる普遍的なものと考えがちだが、移植先の気候風土に育まれた人々の気質や土着社会へ迎合なしには根づかない。普遍的であることの意義や価値に引きずられれば、出来上がったものへの解釈までが精々で、批判的にはみれないだろう。そんなところでは自分(たちの社会)の特殊性への適応能力など育ちようがない。

気候風土の厳しさが、人間が本来は持っているはずの自分の目で確かめて自分で考えて、ことの良し悪しを判断する能力を培う自由を許さない。ウクライナに侵攻したロシア軍がその典型を見せてくれているような気がしてならない。赤の広場のパレードやクレムリンのプロパガンダのような戦闘力が張り子のトラに過ぎないというだけでなく、ロシア社会そのものが手の施しようのない致命的欠陥を内包していることを白日の下に曝している。ロシア軍は風土病的な腐敗、低い士気、指導力の低さに加え、個人のイニシアチブが欠落し、指揮官は個人の責任を取ろうとしない。ロシア文化もとではどの社会組織においても、上から下まで誰も社会的責任を負おうとはしない。それは社会主義だ(った)からということではないだろう(と思っていたい)。ソ連の崩壊を招いたのも、ウクライナ侵攻を始めたのも、もとをたどればロシアの気候風土に培われた人たちの気質が内包する問題――知り得ないことから生まれる人々の無知とそれを支配の道具として使ってきたことを問題としないできた人たちの姿勢とその姿勢を生み出す気候風土にいきつくような気がしてならない。
2022/9/11