厳しい環境が将来の糧

生物の進化について学術上の何かを発言しうる立場にいるわけではないので、巷のビジネスマンの俗論として頂くことを前提としての話しだが、企業の進化と生物の進化にはかなり似たようなところがあると思っている。多くの人が同じように考え、感じていらっしゃると想像している。
突然変異でもない限り、生物の進化の多くは環境が変わったときに、その違う環境に順応せざるを得ない状況に追い込まれて起きる。逆の見方をすれば、環境が変わらなければ、あるいは生物が何らかの理由で違った環境に飛び込みでもしない限り、進化は起きない。ある時点に限ってみれば環境に最も上手に順応した生物が繁栄し、適応しきれなかった生物は絶滅するか、その環境のなかのニッチな部分で生き延びて限られた繁栄に留まることになる。こうして考えると、ある環境に最も適合していることが勝者となるための必須条件に思える。そして適合した環境に変化がなければ、勝者の繁栄は永久に続くようにすら思える。また、適合した環境の変化が緩慢なら、勝者は緩慢な変化に追従するかたちで進化して繁栄を継続することになると思える。ここまでは常識の範疇の話しだろうし、大きな異論があるとは想像していない。実は次の話しも常識の範疇の話しでしかないので異論があるとは想像していないのだが、果たしてそうかな?という疑問が多少なりともある。まして当事者だったら、どうだろうと。いくつかの例を上げてみる。
ある特定の環境にあまりにも完璧に順応すると(進化でいう過適応)、どのようなことが予想されるか?当然その環境では勝利者として繁栄を謳歌できる。例としては、オーストラリアの有袋類やペンギンもこの範疇の勝利者と言えだろう。勝者であればいいじゃないかというとそう簡単じゃないところに面白さというか怖さがある。ここで全く種類の違うが問題が、一つ目は、環境が変化する場合の適応の可能性と、二つ目は環境は変化しないが、そのプレーヤが変化する場合の二つの問題がある。
1)まず、環境が変化する場合。環境変化が緩慢であれば、変化に追従しうる可能性がある。しかし、ビジネスの世界で言う「茹で蛙」になってしまう可能性も大きい。追従はできているものの、生存競争の主役の地位から落ちてしまっていて、最終的には淘汰されるか、ニッチで生きる立場に追い込まれる。この一つの例がペンギンだろう。
鳥としてみれば退化に近い進化を遂げ、海での生活に適応し一時期は繁栄したが、魚やイルカなどの哺乳類との生存競争に敗れ、生みの生活に適応しすぎたため、いまさら鳥に戻る進化はありえないし、で、最終的には、地域的なニッチでの生存に限られた存在になってしまった。
もし、環境変化が急激だと、以前の環境にあまりに適合しすぎていることがマイナスに作用し、新しい環境に適合する能力を失ってしまっている。この場合は淘汰以外にはありえない。例としは誰でも知っている恐竜が上げられる。
環境を人口構成など社会全体のありよう、また企業がよって立つ技術基盤などと考えれば、似たようなことが企業の盛衰に当てはまる場合が多い。長年に渡る多大の努力の末、ある時点である市場の特徴にぴったりあった事業戦略を確立し市場を制覇したが、そのぴったりあった体制が次に変化した市場に対応することの邪魔になる。成功が大きければ大きいほど、個人としても組織としてもその成功体験から抜け出すのは容易ではないだろうし、しばしば成功が人を傲慢にまでしてしまい、謙虚な気持ちで次の環境に対応することを潔しとしない精神構造まで生んでいることがある。周りを見渡して、構造不況などと呼ばれている業界があれば、その業界の多く企業がこの状態にある。
2)環境が変化しない場合。狭義の環境変化はないが、もっと厳しい環境で進化した種が外来種として入り込み生態系が変化する場合がある。この場合、穏やかな環境下でのんびりと進化してきたがことが生存競争に勝ち抜く能力を会得する機会を失わせることになってしまったと言える。オーストラリアの有袋類はこの典型だろう。
保護貿易などで保護されていた業界に対する保護が消失した場合などがこれに相当する。生物も企業も厳しい環境下で切磋琢磨せざるを得ない、進化せざるを得ない状態におかれていないと、最終的には淘汰の憂き目にあうことになる。
今の市場環境の厳しさが将来の生存競争に勝ち抜くために必要な能力を鍛え、習得する機会を用意してくれているとでも考えれば、がんばりもようもあるというものだ。