無批判な集団行動が生む…

子供が高校受験のとき、いくつかの希望校の学校案内に目を通した。進学塾から提供された学校紹介一覧はまるで薄い目の電話帳ほどの厚さがあった。ついでと言ってはなんだが、興味半分で記載されている多くの高校の学校案内を読ませて頂いた。どこも自由な校風、個性を尊重した教育などをうたっていた。うたわれていることは仰せごもっともで、そうあってしかるべき内容ででしかなかった。
親の仕事のせいで中学受験をしそこなった。それで、帰国したときにどの公立中学に入れるかを思案した。帰国したのが夏休みだったので、休み中に迷惑になりかねないのを承知でいくつかの中学校を訪問して、教育方針などをお聞きした。そのときにお伺いした内容も似たり寄ったりだったと記憶している。
小学校高学年から中学一年にかけて海外にいたため、高校受験の準備には相当時間をかけざるを得なかった。親父より子供の方が時間に追われた毎日を送っていた。下校してから、塾とピアノやバイオリン、英会話とパンパンにはったスケジュールだった。そこに、しばし、クラスメートから合唱祭やら、なんやらの催しの練習やらの通達が来た。授業が終わった後で、これこれをすることに決まったから、xxx曜日は放課後何時まで学校に残れという命令?だ。似たような通達が教師から父母の連絡網と呼ばれるもので来たこともある。ここには、教師が決めたこと、あるいは、みんなで決めたことというのが絶対服従の強制力をもっていると信じて疑わない、集団が、全体が個人の上に位置するというのが当然との考えがある。
そこには、人にはそれぞれの都合があるかもしれないという配慮は見られない。授業で拘束される時間以外は本来個人の自由に委ねられる時間ではないのか?それがたとえ家でゆっくりしたい、遊びに行きたいというまとこ個人的な理由であっても、その個人の自由を侵す権利はない。集団内のほとんどの人が人種的、宗教的、社会的、経済的に似たような状態にある日本にいると、相手が自分とは違った思考、志向、嗜好を、常識すら違ったものを持っている可能性について思い至る習慣が身につきにくい。
一歩日本をでれば、当たり前のような前提が成り立ち得ないことに日々遭遇する。意見の違いに対して、常識だろうと言えば、そりゃ、あんたの常識だろうと押し返される。そこでは、常に、相手の立場を、自分とは違う思考が存在することを前提とした社会がある。個々人の自由意志に基づいた社会を構成してゆく文化がある。これこそが、民主的な社会を作り上げる基本のはずだ。
だからこそ、学校教育の基本に“自由な校風”などという、少なくとも字句の上では、それを明らかにうたっているんじゃないのか?にも拘らず、なされていることは、個人の自由に基づく批判を許容せず、集団行動を強制する教育ででしかないように見える。一人の先生で、多くの生徒を効率よく管理するには、個人の自由を制限した集団行動しか方法がないという反論もあるだろう。みんながばらばらであるより、見た目がきれいに統率されていることの方が一見まともに見えるだろう。
卒業式の練習に一週間以上かけて、統率された卒業式を行うことに、どれほどの価値があるのか?管理する側の都合が優先された教育にどれほど本質的な価値があるのか?そのような教育からは、次の社会を背負ってたつ人材は育たない。自我の確立すら自覚することなく、所属した集団の利益を無批判に甘受し、管理されることを自然の摂理とでも勘違いした牛馬の群れのような人達が輩出されるだけになりかねない。
このような管理優先の教育では、いつまで経ってもまともな民主的な社会を創り、運営してゆく人材は育たない。個人の自由意志を尊重しない人達や組織は民主的な社会を作り得えない。当たり前のことだが、個人の自由意志は全てに優先する、しなきゃならない。