太陽光発電-太陽電池

毎日のようにテレビや新聞で、駅や通勤中の電車のなかで太陽光発電の宣伝を目にする。宣伝を見る限りでは、太陽電池も開発の黎明期から実用化を経て大量生産の普及期に入ったかのように思える。太陽光発電で毎年事業規模を倍増している企業もあり、明日の主要産業にまで成長するかのような話も聞く。環境負荷を考えると化石燃料の使用も控えざるを得ないだろし、原子力発電にいたっては、利権に関係のないフツーの人が考えれば、万が一のときのリスクは背負いきれないとの結論しかない。どこから見ても、誰の目にもすぐそこにある将来の電力需要をまかなうのは太陽光発電しかありえないように見える。
屋上緑化ビジネスに関係していたとき、同じ屋上に設置されることの多い太陽光発電の関係の方々のお話をお伺いする機会があった。総じて右肩上がりの話が多かったが、中国から競合も含めて競争は厳しく、決してバラ色だけの業界でもなさそうな話もあった。興味深いのは太陽光発電とは利害関係はないが、多少の内部事情も入ってくる周囲にいる方々の話だった。
話される方の立場によって見える景色の違いが話の内容を若干違ったものにしていたが、要約すれば次のようになる。「太陽電池の変換効率(光のエネルギーを電力に変換する効率)も多少だが良くなったし、価格もかなり下がった、さらに行政支援もあるので導入しやすくなった。ただ、それでも発電できる電力と導入コストを考えると、とても元は取れない。メーカは保証しているが、半導体で構成した太陽電池を夏も冬も野ざらしにして本当に10年間ももつのかな?」
お聞きしていて、ふと素朴な疑問が湧いてきた。 もし、太陽光発電が宣伝されているように、また報道されているような、いいことずくめの発電方法だったら、金融筋でも動いて、行政の支援も引き出して、太陽光発電株式会社なんてのが設立されて、新しい電力会社ができているはずじゃないのか。貯金してもたいした金利はつかないところに、ファンドのかたちで多少色をつけた利回り保証すれば、資金も集められるだろう。太陽光発電の設置数量にしても個人で購入する量とは比較にならない大きさになるから、単位発電量に対する初期コストも低減できる。個人所有の太陽光発電に対する競争力もある。太陽光発電屋同士が戸建て住宅や集合住宅の屋根使用権を取り争うなんてことも起きかねない。発電に関係したことのない企業ですら、太陽光発電設備を導入して電力会社としてのビジネスを立ち上げるところも出てくるはずだ。ところが、一向にこのような動きは見えない。これは、太陽光発電はビジネスにならない、儲からないと企業が判断している証拠じゃないのか?
原子力発電も化石燃料を使用した発電も燃料が違うだけで発電方法は原理として変わらない。太陽光発電が喧伝されているようなすごいものだったら、従来の発電設備を電力会社に販売、納入している重機械、重電メーカの株価は暴落するはずだし、これらのメーカが生きるか死ぬかの覚悟で太陽電池や太陽光発電市場に参入してくるか、あるいは勃興してきた太陽光発電を政治的に潰しにかかるはずだ。太陽光発電は本来のあり方からして小さな出力の発電施設の分散になる。家庭で発電して家庭で消費する。まるで家庭菜園のような形態になる。となると、高圧電送網の必要性も減るから高圧送電線設備の会社の株価も暴落しているはずだが、
さらに、東電を始めとする電力会社が太陽光発電の発電会社を子会社として作るか、太陽光発電企業への脱皮を急ぐはずだ。どうもそんな動きが起きているようには見えない。
“もし、xxx”だったら、”yyy“のはずだというロジックにとんでもない欠陥がなければ、そして、起きていることがyyyでなければ、もし、xxxという始まりのxxxに欠陥があるとしか考えられない。ということは、今、巷で喧伝されている太陽光発電の利点に何らかの間違いがあるとしか思えない。間違いが本質的に手前味噌ででしかありえない宣伝によるとしても、誇大広告の非を免れない。ましてや報道がその手前味噌に加担していたら、報道と呼ばずに宣伝と呼んで頂きたい。 経済的に多少余裕のある市井の環境問題を気にされる善意の方々がお人好しにされているだけでなければいいのだが、