リクルートスーツ

随分昔の話しでアメリカ人かフランス人だったか忘れてしまったが、高名な建築家が来日した際に日本の第一印象を尋ねられて、“日本には、なんでこんなに刑務所が多いのか?また、なんでもこんなにも多くのホテルボーイが街をあるいているのか?”と聞き返されたと、なにかの雑誌で読んだ記憶がある。高名な建築家の目には、当時の日本の画一化された団地が刑務所以外にはありえないと、また男子高校生の詰襟制服姿がホテルボーイに見えたらしい。
団地がマンションに取って代わられ、画一化された制服も一掃され学校ごとにそれなりに特徴のあるものとなって久しい。なかには制服すら廃止している高校まででてきて、それが決して浮き上がったものではない世の中になった。70年代初頭の学園紛争華やかし頃、制服、制帽廃止も要求項目の一つだった。そんな時代を経てきたものには、隔世の感がある。今や、この服装で勉学に勤しんでると自己申告されても俄には信じがたいものまである。社会が豊かに、自由になった、些細ではあっても一つの証だろう。
ところが、その一方で80年代の中頃からなのか、少なとも70年代じゃない、リクルートスーツなるものを目にするようになった。リクルートスーツなどという呼び名も知らなかったが、一見制服と見間違えるほどよく似たスーツを着ている若い人達を駅で見かけるようになった。昔は短い就職活動の間だけだったのが、今や就職難のためだろう一年中になった。
服装をはじめとした身に着けるものによる個性の主張や自分らしさの表現などに、大きな価値を認めるつもりはないが、社会が成熟し、労働もありかたも私生活もますます多様化しているにもかかわらず、若い人達があえて没個性の就活ユニフォームに身を包む。社会に出るにあたって、わざわざユニフォームを着る。なにがそうさせているのかが気になる。
リクルートスーツは時代の一つの象徴のように思える。よく似たスーツへの画一化が外見だけの留まらず、若い人達の面接への回答も画一化し、その社会認識すら規制してきたように思えてならない。 私生活では自由を謳歌している若い人達が、就活になると手の平を返したかのように個性とまでいかないまでも自分を隠す。自分を隠して、みんなと同じ恰好になって群れの中に紛れ込む。その方が無難だと、目立たない方が安全だという暗黙の常識のようなものが社会を支配しているように思える。
面接では、誰も彼もがトレーニングでも受けて丸暗記でもしたような模範回答を返す。本来勉強してきたであろうこととは無関係な、的はずれな印象付けを狙った自己アピール−それも指導でも受けてきたのではないかと思える、似たような−をするものもいる。ここまでくると、社会に、企業に貢献しうるであろう勉強をしてこなかったことを自ら発露しているに過ぎないようにみえる。しっかり努力してきた、勉強してきたという自負があれば、それ相応の態度にも、発言にもなるはずなのだが、それをよしとしない風潮がある。
リクルートスーツに象徴される画一化は一時の流行ではない。豊かになって、保守的になった今の社会が、就職難が若い人達を、必然として外見も中身(少なくとも面接の場での)も当たり障りのない、少なくともマイナス評価を受けにくいだとうと守りの姿勢に押し込んでいる。問題は、若い人達が自ら保守的になったのではないことにある。彼らをして必然的にそうさせてきた社会がある。
次の社会を作ってゆくには欠かせないしっかりした個性や主張、社会を突き動かしてゆくエネルギからできるだけ距離をおき、大過のないことを最優先とした安定志向の社会が、次の時代を背負う若い人達に本来あるはずのものを捨て去らないまでも、隠すことを、群れに紛れて自己を出さないようにしているとしか思えない。この若い人達が明日の日本を背負って立つしかない日本が、彼らからすれば年寄りが作った、作ってしまった日本がある。