シュタージ 東独の秘密警察(改版)

どうしたものかと落ち込んでいたとき偶然みつけた『芙蓉千里』全四巻を一気に読んで、勇気をもらった。著者須賀しのぶはラノベ出身らしく、文章は軽く躍動している。面倒なものばかり読んでいると、ついラノベが恋しくなる。無教養を棚にあげての言い分で申し訳ないが、独自の文体(?)で、だからどうしたという心象風景やらなんやらをこれでもかこれでもかと続けられると、読みかえすことになる。一回ならまだしも、二度読み直しても作者の意図を読み切れないで往生することもある。
長文読解は受験だけでご容赦いただきたい。科学技術の進化が激しくて、明治維新のときのように、溢れでる英(独仏)語を漢字に置き換えている余裕がない。カタカナが氾濫して日本語がものすごい勢いで変わっていく中で、今日本文学になにが求められているのか?素人ながら心配している。

『芙蓉千里』の勢いのまま、図書館から『革命前夜』を借りてきた。クラッシック音楽の知識がないから、Webで調べながら読んだ。舞台はベルリンの壁が崩れるなんて誰も想像もしなかった一九八九年のドレスデンとライプツィヒ。物語は一九八九(昭和六十四)年一月七日から始まっている。偶然、その日にクリーブランドの仕事を終えて成田に返って来た。一年以上も海外にいると日本の世事に疎くなる。空港や街の物々しさに、何が起こったのか想像もつかなかった。昭和が終わったと知ったのは翌日だった。
革命前夜と聞くとロシア革命を思いうかべるが、描かれていたのはベルリンの壁が崩壊するまでの東ドイツだった。普通の生活を求める人々の活動が最高潮に達するかという時の東ドイツを題材にすれば、シュタージに触れない訳にはいかない。

シュタージ?聞いたことがあるようなないような。東ドイツの秘密警察のことは何処かで聞いた記憶があるが、半世紀も前のことで何も覚えていない。何も知らないままこの年になってシュタージについてWebで漁った。調べていたら、どうも定本らしきものがでてきた。ドイツ語では手も足もでないが、英語なら辞書を引き引きでも読めないことはない。ただ六千円もだして買うか?巷の素人なんだし、他に気にかかることも多いから、Web漁るまでで十分じゃないかと思いながら、みていった。

今更なんでシュタージ?と思われるむきもあるだろう。理由は簡単で、社会主義や共産主義の理念や理論ではなく、現実として存在していた、そして今も存在している、巷の常識ではそれが社会主義のあるいは共産主義の実態だと誰しもが認めざるをえない社会がいったいどういう社会なのかを確認する一つの手がかりがシュタージにあると考えたからで、それ以上のことはなにもない。なにをいってんだろうと思う人もいるだろうが、簡単な紹介だからお付き合いして頂ければと思う。

1)「諜報国家のやましい秘密」
https://digitalcast.jp/v/21681/
スピーチは英語だが、日本語のスーパーインポーズがついている。分かり易い内容で、これをみるだけでシュタージがなんのかがわかる。

2)「Stasi From Wikipedia」
https://en.wikipedia.org/wiki/Stasi
「シュタージ ウィキペディア」という立派な日本語のサイトもあるんだから、わざわざ英語のサイトなんかに行くことなんかないんじゃないと思う人も多いだろう。たしかに日本語のサイトで十分なこともあるが、海外のこととなると日本語サイトの情報が限られていて、どうしても英語のサイトを見にいかなければならない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%B8

Wikipediaの前にGoogleにPopulation of East Germany in 1989と入力したら、16.4 millionとでてきた。ベルリンの壁が崩壊したとき、東ドイツは一千六百四十万人の人口を擁していた。
Wikipediaの英語のサイトをDeepLで機械翻訳した。要点は下記のとおり。
シュタージ(Stasi)として一般に知られている国家保安省は1950年から1990年まで東ドイツの国家保安機関であった。
シュタージの機能はKGBと似ており、国家権力を維持する手段、すなわち「党の盾と剣」(Schild und Schwert der Partei)として機能していた。これは主に、民間情報提供者のネットワークを利用することで達成された。この組織は東ドイツでおよそ25万人の逮捕に貢献した。
シュタージは1957年に表面的には独立を認められたが、KGBはシュタージ本部の8つの主要局長すべてとドイツ民主共和国周辺の15の地区本部のそれぞれに連絡官を維持し続けた。シュタージはまた、東ドイツを訪れる観光客を監視するため、モスクワとレニングラードに作戦基地を設置するようKGBに招かれていた。ソ連の諜報機関との密接な関係から、シュタージの将校を「チェキスト」と呼んだ。KGBは住民を統制し、政治的に正しくない人々や反体制派を弾圧するために、「目立たない嫌がらせ」を行った。これには、失業や社会的孤立を引き起こし、精神的・感情的な健康問題を誘発することが含まれる。1978年東ドイツのKGB将校に、ソ連で享受していたのと同じ権利と権限を正式に与えた。
シュタージの比率は、東ドイツ人166人につき秘密警察官1人だった。正規の情報提供者を加えると、この比率はもっと高くなる: シュタージの場合、少なくとも66人の市民につき1人のスパイが監視していたことになる!パートタイムの密告者の推定数を加えると、市民6.5人に1人の密告者という途方もない結果になる。10人、12人の晩餐会に少なくとも1人のシュタージの情報提供者がいたとしても不合理ではなかっただろう。巨大なタコのように、シュタージの触手は生活のあらゆる側面を探っていた。(ゲシュタポは2000人に1人の秘密警察官を配置していた)
1950年から1989年にかけて、シュタージは階級の敵を根絶するために合計274,000人を雇用した。 1989年において、シュタージは91,015人をフルタイムで雇用し、そのなかには2,000人の完全雇用の非公式協力者、13,073人の兵士、2,232人のドイツ民主共和国軍の将校、ドイツ民主共和国国内の173,081人の非公式情報提供者、西ドイツの1,553人の情報提供者が含まれていた。 正規のシュタージ将校は、18ヶ月の義務兵役を名誉除隊し、SEDの党員であり、党の青年部の活動に高いレベルで参加し、兵役中にシュタージの情報提供者であった徴兵者から採用された。 1995年までに、約17万4,000人のシュタージの情報提供者(inoffizielle Mitarbeiter:IM)が確認されており、これは18歳から60歳までの東ドイツの人口のほぼ2.5%にあたる。50万人もの情報提供者がいた可能性がある。
すべての主要な産業工場に専任の職員が配置され(監視の範囲は、その製品が経済的にどの程度価値があるかによって大きく左右された)、すべてのアパートの一人の借主が、ヴォルクスポリツァイ(Vopo)のエリア代表に報告する監視役として指名された。スパイは、他人のアパートに宿泊した親戚や友人をすべて報告した。アパートやホテルの部屋の壁には小さな穴が開けられ、そこからシュタージ諜報員が特殊なビデオカメラで市民を撮影した。学校、大学、病院は広範囲にわたって潜入され、ティーンエイジャーが西洋のビデオゲームを交換するコンピュータクラブなどの組織もそうであった。
情報提供者は、重要であると感じさせられ、物質的または社会的なインセンティブを与えられ、冒険心を植え付けられ、公式の数字によれば、協力を強要されたのはわずか7.7%程度であった。情報提供者のかなりの割合がSEDのメンバーだった。シュタージの情報提供者の多くは、路面電車の車掌、用務員、医師、看護師、教師であった。最良の情報提供者は一般市民と頻繁に接触する仕事を持つ者であると考えていた。
場合によっては、配偶者同士がスパイ行為を行うことさえあった。有名な例としては、平和活動家のヴェラ・レンスフェルドがおり、彼女の夫であるクヌード・ヴォレンベルガーはシュタージの情報提供者であった。
1970年代までに、シュタージは、逮捕や拷問といったそれまで採用されてきたあからさまな迫害の方法は、あまりにも粗雑で明白であると判断した。そのような抑圧の形態は国際的に大きな非難を浴びていた。心理的ハラスメントは、それが何であるかが認識される可能性がはるかに低いため、その被害者やその支持者は、自分たちの問題の原因やその正確な性質にさえ気づかないことが多く、積極的な抵抗に駆り立てられる可能性が低いことに気づいた。国際的な非難を避けることもできた。政治的、文化的、宗教的に正しくない態度を示すと判断された者は、「敵対的否定勢力」とみなされ、ツェルツェッツングの手法で標的にされる可能性があった。このため、教会のメンバー、作家、芸術家、若者のサブカルチャーのメンバーがしばしば犠牲となった。ツェルツェッツングの手法は、標的とされる特定の人物、すなわち標的の心理と生活状況に基づいて調整された「創造的で差別化された」方法で適用され、さらに発展させられた。
ツェルセツングの手口は通常、被害者の私生活や家庭生活を破壊するものだった。
器物損壊、車への妨害工作、旅行禁止、キャリア妨害、意図的に間違った医療を施す、中傷キャンペーン(被害者の家族に改ざんされた危険な写真や文書を送りつけることも含む)、糾弾、挑発、心理戦、心理的破壊、盗聴、盗撮、謎の電話や不要な配達、さらにはターゲットの妻にバイブレーターを送りつけることなどがあった。ターゲットにされたことによる心理的、肉体的、社会的な悪影響のために、失業や社会的孤立の度合いが高まる可能性があり、実際にそうなった。多くの者は、自分たちは正気を失っているのだと考え、精神崩壊や自殺が起こることもあった。

ここまで読んでくると、なんて奴らだと思わない人のほうが珍しいだろう。Wikipediaの記述がすべて正しいとも思わないが、大筋で間違ってはいないだろう。ましてプロパガンダの類だとは思えない。

「諜報国家のやましい秘密」で述べられているが、シュタージはソ連のKGB(の前身)を手本とし、指導を受けて設立され、ドイツ流に改良?されていった。ソ連がなければ東ドイツはなかったし、KGBがなければStasiもなかった。
ソ連が崩壊してもKGBの内部資料は公開されなかったが、東ドイツはあっという間に瓦解したため、関係者が内部資料を焼却する時間が足りなかった。おかげでStasiの全容が明らかになった。アーカイブとして公開されている。毎年十万人ほどの人たちが閲覧しているらしい。情報提供者のリストのなかに親しい友人や肉親の名前を見つけてしまう人もいる。

アメリカにも日本にもそれなりの秘密警察はあるだろうが、シュタージはちょっと違う。知れば知るほど胸糞がわるくなる。なぜそこまで国民を信用できなかったのか?国民の大勢に信任されない政治権力は人々を強権で抑え込まなければ政権を維持できないからだとしか考えられない。
もう半世紀も前になるが、二十歳をちょっと超えたころ資本論入門の新書で準備して、半年かけて『経済学批判』で地ならしをしてから二年半以上かけて『資本論』を読んだ。その後も『世界』を羅針盤のようにして、マルエン全集やルカーチ、ポール・スウィージー、そしてMonthly Reviewの会員にまでなった。ソ連の社会主義社会には憧れをこえて畏敬の念すらあった。身についた思考の慣性は少々のことでは揺るがない。『世界』に掲載された西川潤の北朝鮮の報告書に感動したのを昨日のように覚えている。工作機械の技術屋を目指していたが、三十を過ぎた頃には、本屋や雑誌で得た知識と目の前の実の社会との違いから、自分を説得する力が萎えていった。科学的社会主義とはいったいなんなのか?だいぶ整理はついてきたが、未だに落ち着かないでいる。

親兄弟や親族、幼馴染や同級生、ご近所さんから同僚、友人、幼稚園の保母さんが、恩師や愛弟子が、かかりつけの医師やお世話になっている税理士が、郵便局やスーパーの店員が……誰も彼もが、果ては恋人同士で密告しあう社会がマルクスやエンゲルスが思い描いた理想のー労働者が政治経済の実権を掌握する社会であるはずがないだろう。
それにしてもそんな監視国家が四十年も続けば、監視の目を気にしてきた人々のありようが一朝一夕に変わるとも思えない。百年以上前の人々の希望だったソ連はロシアと名前は変ったけれど、KGBは最新の科学技術も活用して洗練された監視体制を敷いているんじゃないか、と思うと薄気味悪いじゃすまない。ましてやそれをいまでも信奉しているような話しを聞くと、なんでとお訊きしたくなる。
2023/7/17 初稿
2023/9/6 改版