古地図と古文書で今を語るな

いつものようにスーパーへと歩いていったら、駅前広場にまたオレンジ色のジャケットを着た集団がいた。マイク片手になにかいっているが、聞こえるだけで聴く気にはなれない。距離をあけてさっさとスーパーに入って、あれこれ買って表にでたら、オレンジ色の代わりに渋い集団がいた。選挙が近いのか、今度は共産党だった。話を聴く気はないが距離が近すぎた。出されたビラを思わず受け取ってしまった。ビラをとるということは気にしているという意思表示になってしまうのか、話かけられた。何を聞いたか、何を話したか覚えていない。話を切るきっかけをつかみ損ねたところに候補者らしき人がでてきて話を引きつがれた。たいしたものは買ってないが、バッグが重い。さっさと切り上げてと思っていたら、自己紹介されて名刺まで頂戴してしまった。清き一票をということだろう。

頂戴した名刺を捨てるのを躊躇って机の脇においておいた。気にするわけじゃないが、どうしても目にはいる。数日後、はたと思った。もしかしたら、いつもとは違う集団の話しを聞けるかもしれないじゃないか。躊躇いながらも「社会勉強になりそうなセミナーなどご存知でしたら、教えてください」とメールをうってしまった。忙しいのは分かっている。巷のオヤジからのメールなんかにかまっている暇があるとも思えない。期待していなかったのに、数日後、律儀にも返信メールをくださった。そこにはセミナーの案内が添付されていた。

会場を調べたら、住まいから徒歩数分のところだった。党員だったこともあるが、もう半世紀も前のことで、少しは変ったかなという淡い期待の欠片だけが残っている。しぶとい欠片でいつまで経ってもなくならない。欠片に引きずられるかのように、でも期待しないようにと思いながら出かけていった。
テーマは働き方だった。ベテラン党員の話しが堂に入っていた。先進ヨーロッパの状況と比較した資料をもとに、日本人の労働時間の異様な長さや平均収入などなど、分かり易い話だった。ただ、現象をかいつまんだまでで、なぜ、どうして、どうするのかという踏み込んだ話にはならない。似たようなことは、半世紀以上前にも聞いていたし、自分の言葉として話していたことさえある。

ありふれた話のなかに、「マルクス」と「イギリスの産業革命」が出てきた。キーワードとしてだけで、さしたる説明もない。それを聞いた一般大衆が何をイメージするのか分かっているようには見えなかった。正直がっかりした。日本共産党は、百年以上前の古文書を引き合いにださなければ、今の日本、そして将来のありようについて話ができないのか?
マルクスの経済思想の集大成ともいえる『資本論』は一八六七年に第一巻が出版されている。マルクスが分析したのはイギリスの産業革命時の資本主義社会だった。資本主義の本質を解き明かしたもので、今でも必読の書であることは間違いない。
ただ百年の違いは大きい。飛脚が郵便に、そして電信に電話から、ラジオやテレビからインターネットとスマホが当たり前になって、AI騒ぎが起きているところに古文書と古地図をもちだして、今の社会を説明できると思っているわけでもないだろう。
戦後の労働運動や学生運動が盛んだったころなら、多くの人がマルクスや『資本論』を一度は耳にしたことがあるだろうし、中には手のとった人もいただろう。今はインターネットが普及して情報の即時性が実現されている。プロパガンダも含めて情報が氾濫しているが、普通の人たちのなかには、マルクスをはじめて聞く人もいるだろう。産業革命は社会科の教科書に載っていたという程度の知識しかない人たちもいる。

思想や理念は情報を知識に昇華してはじめて生まれる。日常生活から社会をみている多くの有権者に理想や理念からの話をしてもなかなか分かってもらえない。社会というより知り合いのコミュニティのなかで生活している人たち(典型が会社人間)のなかには、日本共産党、共産党、共産主義と聞いて、ソ連やロシア、中国や北朝鮮をイメージするまでの人たちも多い。

マルクスが思い描いた歴史の必然として起こるであろう社会改革(革命)を図式化すれば、次のようになる。大ざっぱすぎると叱られるだろうが、多少なりとも共産主義や社会主義を聞きかじった人たちですらここまでの人たちもいる。
労働の場でのストライキや街頭のデモ、それを強権で抑えようとする体制派との衝突から暴動や武力闘争へ、そして革命運動へとつながる。革命政権が誕生すれば、働く人たちが主人公となるはずだったのが、武力をともなった官僚支配でしかない政治体制しか残らなかった。多くの血を流したあげくに情報統制が当たり前の警察監視国家しか生まれてこなかった現実を目にしている一般大衆に、マルクスや共産主義をそのまま持ち出せば、人々は目の前にあるロシアや中国、北朝鮮をイメージして、日本共産党の支持者は減りこそすれ増えるとは思えない。この数十年の歴史がそれを証明しているじゃないか。

党活動に忙しいと、党員や親しい友人と過ごす時間が多くなって、大衆社会からの遊離してしまう。古文書や古地図にとらわれれば、世間離れを避けられない。世間離れした政治団体を支持する人たちが大勢になることはない。半世紀以上前の実体験からだが、そこに気づくと党員であることが息苦しくなる。

古文書によれば、もてるものは自身の体しかない、資本に搾取される存在でしかありえない労働者がプロレタリアート階級として資本家階級と対峙している。労働者をLaborととらえ、労働組合をLabor unionとするのはいいが、高度に発展した産業社会では労働者が大きく二つに分かれている。産業の高度化、言い換えれば効率化あるいは生産性の向上を実現し続けている労働者と効率化がもたらす労働環境で定型化された仕事をしている人たちがいる。両者を一括りに労働を売ることによってしか生活が成りたたない労働者、Laborととらえるには無理がある。

日本共産党は共産党となのってはいるが、ロシアや中国や北朝鮮とはこうこうこう違うという説明と、マルクスが描いた暴力革命によって共産主義社会が成立するはずだという理念は、我々日本共産党が考えている共産主義(民主)社会への道程とはこう違うんだという説明なしで、マルクスを口にするのは避けるできだと思う。半世紀前に持っていた理念を今も変わることなく持ち続けている者の、要らぬお節介でしかないが、ちょっと考えてもらえないかという気持がある。
古文書や古地図は懐に収めて、今の社会(大衆と同じところ)にたって話をしなければならない。今の社会と将来の社会のありように責任をもつ政党として当たり前のことだと思うのだが、近視に乱視のうえに老眼の進んだ年寄の目にはその兆候がみえない。
2023/11/21 初稿
2024/1/7 改版