何をもってして日本人なのか?(改版)

日本で生まれて育って就職して結婚して……、何をかんがえるもなく漠然と日本人だと思ってきた。仕事でアメリカにいたこともあるし、ヨーロッパの会社にもお世話になった。あちこち渡り歩けば、文化や習慣の違いに驚くことも多い。仕事でも日常生活でも、なにがなんでもそりゃないだろうということに何度も遭遇して、常識は一つじゃない、世の中にはいくつもの常識があることに気づかされた。驚くことに、かつてそれ素面で言ってるのと思ったことが今の日本で常識になりつつあると感じることがある。いくつもの常識に遭遇して、その違いは歴史や文化や価値観や社会観や国や民族の違いからくるものより、それぞれの人の生活からくる方が大きいんじゃないかと思っている。言い換えれば、人種の違いより同じ人種のなかでの個人個人の違いの方が大きいということになる。

社会的な規制はあるにしても、自分の考えを自由に言うことができる社会の方が誰でも自分が自分でいられる。仕事のしやすさという面でみれば、日本人相手よりアメリカ人とのほうが楽だった。アメリカの文化のもとでは、目的のために柔軟にプロセスを選択できるからで、上下関係や立場の違いがあるにしても、お互い相手を認めながらも必要以上に自分を抑える必要がない。そこには人種や文化や価値観は人さまざまで、お互いを対等としようとする共通の理性からなりたった社会がある。日本人だからということでは説明がつかないから、自分に対する疑問と確認作業を繰り返さざるを得ない生活をおくってきた。
日本人社会のしがらみから自由になろうと日本人との付き合いを最小限にして、多人種多文化のなかで生活していれば、自分が何人なのかと自問することもなくなってしまう。国籍は日本で母語は日本語だが、日本人だと意識するのはパスポートを片手に空港でイミグレーションを通るときぐらいしかなくなっていた。空港のトイレで手を洗っているときに鏡に映った自分をみて、ああおれはアジア系なんだなーと改めて思ったことすらある。見た目は東北アジア系で日本人で変わらないが、もう日本の日本なんていう気はなくなってしまった。アメリカに降り立てば、ああ帰って来たなとほっとして、帰国すればああ帰ってきちゃったなーと感じた。
見た目は日本人だけど、日本に特別な思いがあるわけじゃないし、日本だからとか日本人だからということを気にした記憶がない。

ウクライナからの移民の女性がミス日本に選出されたこと、そして見た目が日本人ではないことからひと騒ぎおきたとロイターとCNNが伝えてきた。ロイターは英文だが、CNNは日本語まで用意してくれている。
日本語のニュースがあるからロイター電はとは思うが、何かの参考になるかもしれない。
「Foreign-born Miss Japan sparks debate on what it means to be Japanese」
機械翻訳すると、「外国生まれのミス・ジャパンが『日本人とは何か』という議論を巻き起こす」になる。urlは下記の通り。
https://www.reuters.com/world/asia-pacific/foreign-born-miss-japan-sparks-debate-what-it-means-be-japanese-2024-01-25/

「ウクライナ生まれの『ミス日本』、受賞を辞退 不倫疑惑の報道受け」
https://www.cnn.co.jp/style/beauty/35214954.html#:~:text=%EF%BC%88%EF%BC%A3%EF%BC%AE%EF%BC%AE%EF%BC%89%20%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%AE%E3%83%A2%E3%83%87%E3%83%AB,%E3%81%9F%E3%81%93%E3%81%A8%E3%82%92%E7%99%BA%E8%A1%A8%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
記事の要点は下記の通り。
「日本人に見えることの意味について、ソーシャルメディア上で議論が巻き起こっている」
「ウクライナ生まれで白人風の26歳のモデルは、日本に20年以上住んでおり、帰化している」
「何人かの人々は、椎野が本当に日本の顔なのかとソーシャルメディアに疑問を投げかけた。日本人の血が一滴も流れていない、日本人らしさのかけらもない人が日本女性の代表になるのか?」
「また、彼女が所属する国を代表する権利があるという意見もあった。日本国籍を持っているなら、あなたは日本人だ。それだけじゃない?これ以上何を証明する必要があるんだ?」

「外見で人を判断してはいけない」と子供のころから聞かされてきたが、それはそうあるべきだという道徳観や、そうあって欲しいという希望からの話でしかない。他人の内実はそれなりの付き合いをしてみなければわからない。誰も彼もと腹を割って突っ込んだ話ができるわけでもない。視覚障害でもないかぎり、外見は誰でも見える。「人は見かけによらない」ということわざもあるが、人は日常的に見た目で人を判断している。とくに視覚に訴える美は見た目でしかない。
念のためにとミスユニバースの評価項目をググったら、もっともらしい説明がでてきた。
「ミスユニバースジャパンの評価基準は多岐にわたります。外見の美しさだけでなく、インテリジェンスや表現力、人間性の魅力などが重視されます。さらに、社会貢献活動や地域 ...」
ここで謳っている「外見の美しさだけではなく」を真に受けている人がどれほどいるのか?審査員にしてからと想像している。

ちょっと想像してみて欲しい。インテリジェンスや表現力、人間性……というけれど、人のありようは社会のありよう次第で変わってきたじゃないか。江戸時代の末期から明治時代に、そして第一次世界大戦でぼろ儲けして先進工業国の一員になったころの日本と日本人。さらに第二次大戦中の日本の常識、戦後の民主主義うんぬうんから高度成長を経てジャパン・アズ・ナンバーワンと浮かれていたころ、バブルの崩壊と低金利が続いて右肩下がりの今。時代が変わったということだけじゃない。それぞれの時代を担った日本人がいた。そして次の時代をつくっていった日本人がいた。常識も違えば文化もそして美意識も違う。大きな流れを鳥瞰してみれば、西洋化から国際化へ、多様な価値観をもった人たちが織りなす日本へと変わってきた。その変わってきた社会が江戸時代のような経済的、文化的に鎖国のようなことなどできるわけもない。日本に居ながらにして、従来からの視点でみれば日本でない日本と出会える時代になった。この流れは加速こそすれ逆戻りすることはないだろう。「見た目が日本人らしくない」というのはいいが、今の日本に浮世絵に見る美人像を求める人がどれほどいるのか?ひと世代前の日本人からみれば、今の日本人は日本人らしさに欠けてるようにしかみえないだろう。

日本の日本と、ことあるごとに日本を持ち出す人たちがいるが、その持ち出す日本からして純粋に日本独自のものじゃないことぐらい分かっているだろう。日本人はいい物はいい、美しものは美しいとどこからからでも学んで取り入れてきた。
美意識も急速に変わっている今、今までの日本人感から日本人らしくないというのは、他から学ぶ日本人が誇りにすべき日本人の特性を否定することになりかねないんじゃないか?
2024/7/4 初稿
2024/8/19 改版