累進課税

日本では累進課税を否定する人は稀で、消費税に対しては多くの人達が基本的には否定、財政赤字問題云々から消極的な賛成に留まっていると想像している。ここには、“税制や財政は貧富の差を少なくするものでなければならないという”大げさに言えば社会正義のような日本人の良識がある。あったという過去形でないことを願っている。あるいはその良識を生み出す歴史的、社会的基盤が少なくとも戦後の日本にある(はずだ)。
戦後の高度成長期を通して高度成長の担い手とその周辺に位置した、できた人達と高度成長に関与できなかった人達と間の経済格差が拡大し続けた。その拡大した格差が戦後民主主義の社会認識にとって許容できない大きさに達してしまったと感じるに至ったときに列島改造論が持ちだされた。利権がらみというより利権そのものの体裁を整えたものに過ぎなかったが、地域格差や貧富の差をこれ以上大きくしてはならないという戦後日本の良識が列島改造論をよしとした。
徴収した税金を経済成長の容易な地域に重点的に投下し、そこから上がる税収と利益をその地域に再投下する−拡大再生産で高度成長を実現したが、列島改造論は高度成長を実現した経済合理性を、たとえ一時的であったとしても封印した。経済成長を望むべくもない、経済合理性で判断すれば投資すべきでない、したところで投資を回収し得ない地方(田舎)に徴収した税金が投下された。経済的に遅れてしまった地方とそこに住んでいる人達の経済成長をはかり、高度成長がもたらした経済格差を縮めようとした。当時の日本には、ほとんどの税金に無駄使いと言っても言い過ぎでない列島改造論を支持する社会的雰囲気−公平で貧富の差の少ない社会を求める良識と 社会インフラ業界を中心とした景気刺激策要求と政治利権があった。また、その愚を遂行するだけの経済的体力があった。
高度成長も終わって肥大した行政と累積債務が残ったところに、東アジア諸国の経済発展によって、伝統的な長大重工産業と大量生産が生み出す市場競争力では競合し得ない状態に陥った。世界経済における日本の経済的あり方の変化−大量生産を基盤とした輸出指向の製造業から、知識やイノベーションが富の源泉で、より大きな付加価値を生み出す広義のサービス産業を主体とした産業構造への変化を否が応でも進めなければならない状態に追い込まれた。まるで、“Japan  as No.1“という本に代表される旧体系における日本の驕れる状態と、次の時代の産業構造の構築に四苦八苦していた米国の関係が、20年ほど経って、そのまま東アジア諸国と日本の関係に置き換えられたかのような状態になった。
知識やイノベーションを基幹とした産業社会には伝統的な大量生産の工場や設備はない。当然、規律正しく働く百人、千人という単位の労働者もいらない。少数のVisionaryとVisionを実のものとしてゆく広義の開発能力を持った人達とその人達をサポートする非熟練労働者が産業社会の主要構成員になる。ここでは、かつて工場労働者として、またその周辺の人達として社会の中核をなした中間層が消失する。中間層だった人達のうちで、少数の持てる能力を開花させることに成功した人達は、VisionaryかVisionを実現する人達に転身するが、多くの人達は中間層から非熟練労働者=社会の下層へと押し込まれて行くことになる。
リーマンショックと引き続く金融不安から80年代から一世を風靡した“市場至上主義”がそのまま続くとは思わないし、続きようがない。多くのお手盛り学者や怪しい評論家どもが何を言おうが、今までの粗野なむき出しの“市場至上主義”はこのまま続かない。経済、金融関係の優秀な人達がそこまで無能だとは思わない。しかし、それでも知識とイノベーションを基幹とした社会経済構造に転換した社会が昔のような中間層を多く生み出すかたちにはならないだろう。
安定した社会の構築に絶対不可欠の中間層が少数の上と多数の下に分離する。分離が進み、ある点−ジニ係数でいえば、0.4を超えると、社会が不安定になると言われている。Webでちょっとみたら、2010年の日本のジニ係数は0.336だった。80年代なかばからジニ係数が綺麗な直線で上がり続けている。あと何年もしないうちに0.4を超えるだろう。
市場至上主義者(主義と呼ぶほど堅牢な理論に裏打ちされているとも思わないが)が主張する“社会が提供するのは機会の平等であって、結果の平等ではない”が、いかにある社会層にとって都合の好いものでしかないことをフツーの人達は知っている。個人の努力なのか、ただの運なのか、いずれにしてもうまく行った人達は機会の平等によって結果の不平等を手にしたと、自分達は成功者だという。それはそれで結構だが、結果の不平等が次の世代の機会の不平等を絶対に生む。この絶対に生む機会の不平等をどうか解決するかの案、その実施方法を明示しない限り“機会の平等”論は絶対多数の賛同を得られない。
“結果としての不平等”が次の世代の“機会の不平等”を生み出すのを少なくするためにも、安定した社会を構築し、民主主義を、厚生社会を創りあげてゆくためにも、累進課税をもっと進めて、社会の構成員間の所得格差を少なくして行かなければならない。
80年代に市場至上主義を掲げて規制撤廃を進めた大統領がいた。御用学者の言い草を真に受けてか、図らずも実験ができないと言われている社会経済学上の実験をしてしまった。勇気というより無知からくる蛮勇で富裕層の減税をした。減税で増えた富裕層の収入は産業に投資される。新規投資によって経済活動が活発になり、減税分を補う以上の税収が上がってくる、はずだった。岩波新書のなんとかという本に書いてあったことのうろ覚えだが、机上の理論にもならない高名な理論を振り回していた東部と西海岸の有名大学の教授、それぞれにジャーナリストが噛み付いた。減税すれば税収が増えるという愚理論通りに税収が増えなかったことに対する説明を求められ、どっちがどっちか忘れたが、一人は、そんな理論を主張したっけ?忘れた。というもの。もう一人は、その計算は院生がしたことで知らない。呆れた話だが、過去の話になりきっていないところが、さらにあきれる。ご自身が享受している富裕層向けの優遇税率を棚に上げて、アメリカ人の47%が税金を払ってないとか言い出したり、当然のことのように富裕層の税率を下げること公約としている大統領候補がいる。
市場至上主義に利権を見出す大統領や自説をうまく売り込んだ著名な経済学者のような経済学上の知識も知見も持ちあわせていない者の定性的で曖昧な自説(下記)で申し訳ないが、
富裕層の増えた所得は利得を求めて金融機関に委託される。委託された金を金融機関は利益を求めて運用する(投資する)。市場至上主義のもと金融の自由化が進んだおかげで、減税というかたちで富裕層に今まで以上の所得を与えた国で資金が運用される保証はない。リスクを按配しながらも、より多くの利益を求めて海外で運用されることの方が多くなってしまった。要は富裕層の金は国外に投資されるここが多く、富裕層の金は自国のある一つの産業を除いて自国の産業奨励に回されることはない。そのある一つの(自国)の産業とは今時の金融不安を引き起こした金融機関に他ならない。
累進性を高めて富裕層からもうちょっと税金を頂戴して、貧しい社会層に何らかのかたちで回したらどうなるか? 貧しいながらもしっかり貯金する人達も多いだろうが、貧しいが故に貯金よりは遥かに多くの金が即使われる。使われるということは国内消費需要が大きくなるということで、増えた需要に応じるかたちで経済が成長する。豊でない人達に回った金は直接、経済成長につながる。どう考えても社会経済の視点でみればこっちの方がいいに決まっているとしか思えないのだが、全く逆の主張を好む人達がいる。富裕層とその富裕層の褌で相撲をとる金融機関とその周辺の人達が。