英語では文盲で聾唖もどき

何を言いたいのか?、何を根拠に何を主張しているのか?、いくら話を聞いても、聞こえてくる事物の間の整合性がなく、皆目見当がつかないことがある。なかには軽症なのか、状況と聞こえるとこから、勘違いの可能性があるかもしれない想像を働かせて、聞こえることを編集すれば、多分こんなことを言いたいのだろうくらいは分かることもある。その度に、こっちの理解する能力に問題があるのではないかと不安になる。不安になって、理解するため必須の知識や想像力の延長線上にある編集能力の再々精密検査に走る。
いい加減、この類の事に辟易して、つらつら考えていたら、“文盲”という言葉が浮かんできた。文盲についてちょっと整理を試みた結果を、“半文盲と準非識字”に書いた。結果として書いてはみたが、どうもまだまだ先がある。盲目の方々は物事を知る能力に生理的に明確な限界がある。一般に使用されている文字が見えないから点字に翻訳された情報までしか取得しえない。そのため、得られる情報も知識も絶対量と質が限られる。情報の量と質が限れれば、広義の意味での能力にも影響が出ないはずがないと想像している。あまりに俗な言い方で、差別になりかないので控えるべきかとも思うが、昔の人達の言い方では、“知らない=無知”ということが、即、”馬鹿”を意味した。
この知らない、知る術を保たないが故に、知識も情報も限られていて、状況をたとえ、そこそこの程度であっても理解できずに誤った結論を出して、行動している多くの人達が隣国にいることを日本人の多くが知っている。隣国では政治権力が全市民生活−当然初等教育などの教育過程にも情報管制を敷いているから、市井の人達が得られる知識なり、情報は政治権力のその時々のご都合のフィルターを滲みでたもの以外ではありえない。ある一部の社会層(権力者層)が自分達に都合の良くない知識や情報を市井の人達に伝わらないようにしている。これは、愚民政治に他ならない。愚民政治ではたとえ識字率が上り、文盲がなくなったとしても、一般大衆は社会的に半文盲、準非識字状態に留められる。愚民におかれた大衆は、時の権力の情報操作によって、容易に権力の都合の好い方に走らされる。
ちょっと前に植物生理学を勉強しなければならなくなった。大学の学部生の教科書を三冊読んだがよく分からない。ある親切な研究者に薦められて、全米の植物生理学者がほぼ五年に一度の頻度で改版している“Plant Physiology”(翻訳すれば、植物生理学)を読んだというか、読み続けている。大判でページ数も多いので持って歩くには重すぎるが、図や写真はこれ以上ないというほど豊富。当然、英語で書かれてはいるが、文体は明瞭簡潔、説明は文字通り懇切丁寧。久しぶりに米国の教育体制の底力に圧倒された。三冊の植物生理学の本も大学の專門過程にいる部学生向けに書かれた専門書だが、Plant Physiologyの前には、せいぜい高校の生物学の教科書か中学理科の参考書程度の内容しかない。Plant Physiologyは米国の大学生だけにではなく、International Student Editionとして世界中の植物生理を学びたい人達に向けて販売されている。
発展途上国や成長著しいアジアの国々の大学で植物生理を勉強する学生の多くが、このPlant Physiologyを教科書として使っているだろう。大学の專門過程で使える自国語の教科書はほとんどないだろうから、英語で書かれた教科書を使わざるを得ないハンディを背負っている。このハンディが彼らをして否が応でも、英語で知識を吸収し、英語で情報をやり取りする能力を養わざるを得ない状況に追い込む。一方、日本では、比較してみれば高校生物か中学理科の参考書程度の教科で勉強している。使用する教科は教育体系全体のほんの一部ででしかないとは思うが、使用する教科書のレベルが学生が習得する、し得る專門知識を規定するのを否定できる人もいまい。英語で書かれた米国で発行されたPlant Physiologyを教科書として植物生理を学んだ学生の方が日本語の教科書で学んだ学生より、明らかに知識も、能力も数段上ということになる。グローバル化は止まらない。世界中の国々が、人々が日常的に益々蜜に関係する方向に時代は進んでいるくらいとことを、教える側も学ぶ側も知らないわけではないと思うが、
植物生理学は一例ででしかない。日本が中心にある日本語や日本史、日本料理や文化なら日本語で書かれた文献の方が質、量ともに勝るだろうし、特殊フランス関することであれば、フランス語で書かれたものが優れているだろう。しかし、事、世界で共通な知識となるとどうしても今の世界の共通語、英語での文献、資料、知識が圧倒的な質、量を誇っている。知識が公開されるまでの時間も早いし、間違った知識が、例えばWikipediaに英語で掲載されれば、世界中の人達が即、編集するか書きなおす。
世界では、ある一部の社会層に過ぎなかったとしても、ある知識や情報が常識になっていることでも、英語で知識を吸収する能力のない人達にとっては、その知識が誰かによって母国語に翻訳されるのを待たなければならない。この翻訳する誰かが、隣国のように時の政治権力だったら、翻訳されてでてくる母国語での知識や情報がどのようなものになるか?想像しただけでも寒気がする。隣国ではこれが起きていることを多くの日本人が知っている。知ってはいるが、自分達も、たとえ程度の差はあったにしても似たような状態にあることに気がついていないか、気がついているにもかかわらず解決しようとしているようには見えない。
残念ながら、日本語が世界で共通語として使われる可能性はない。言語の間に優劣があるわけではないが、英語は植民地政策の過程で、母国語としない人達でも使いやすいように変わっていって、現時点で世界の共通語としては英語しかない。ここで、もう一度、“文盲”、“非識字”について考えると、日本人の多くが、実は国際共通語である英語という言語では、ほとんど“文盲”、“文盲”ではないが“非識字”あるいは、“半文盲”であることに気づく。さらに、耳で聞いて判断して受け答えすることも不自由なことを考えれば、ほぼ聾唖に近い。
ほとんどの人が日本には、もう文盲はいないと漠然と思っている。間違ってはいないが、知識も情報も限られている日本語ででの話に限定される。まさか自分が文盲などと考えたこともないだろうし、何を馬鹿なことを言っていると一蹴されるのを承知であえて言わせて頂く。知らない、知ろうとしない、知る能力がない状態がこのまま続けば、また、操作されている可能性のある知識しか得られなければ、その知識を元に考え判断した結論がとんでもないものになる可能性があることを、隣国の大衆が身を持って示してくれている。