潮目はそろそろ左へ

20世紀前半の動乱から学んで、多少は賢くなったのだろう、住みやすい社会にするには、社会として資本の活動を制限した厚生資本主義しかないと多くの人が考えてきた。今でも大多数の人はそう考えていると思うが、やっと気がついて、試行錯誤しながら築きあげてきたものをひっくり返そうとする勢力が80年代以降跋扈してきた。実態経済を離れ、なんでも金儲けのために金融化しかねない金融(富裕)社会勢力とその後ろだてとしての新古典派経済学、それを体現したかのような、小学生程度の社会認識の人にはこれ以上分かりやすい主張も説明もないと思われる株主価値。
彼らの主張によれば、株式会社であるかぎり、株式を所有している人(法人も含めて)が株式会社の所有者で、株式会社の存在目的はその所有者の資産の最大化である。実に簡単明瞭。説明はこうありたいと思う。だが、その説明の前提が、株式会社は、その株式会社が所属(?)している社会全体の一部、全体から見ればある特定の領域の経済活動に限っての、それも一端役をまかされているに過ぎないということ、その主張が社会全体に及ぼす影響に対する洞察が欠落している。歴史をきちんと勉強すれば、この程度のことは中学生でも分かることなので、欠落しているのではなく、己の、己の所属する社会組織や集団の経済的利益をも求めて、欠落させようとしてきたと言った方が適切かもしれない。
80年代初頭にこの無節操な金銭欲が規制緩和や競争原理の貫徹と経済効率の追求という衣をまとって出てきた社会背景があった。戦後、厚生資本主義が次の時代の社会、より公平で民主的な社会を目指していたヨーロッパ各国の思想基盤だった。70年代には、それぞれの歴史的条件などの特殊事情に応じて、北欧の社会民主主義が福祉国家を目指し、南欧ではフランスとイタリアが中心となって人間の顔をした共産主義/社会主義を標榜して次の社会のあり方を追求していた。政治的な平等から進んで経済的な不平等を許容範囲内に収めるべく社会保障制度を充実させる政策が取られてきた。
持てる社会層が、戦後の復興期にはバタバタしていたのが社会が安定してきた途端、自分達の取り分が気になりだした。曰く、社会保障を優先するあまり、彼らの経済活動が生み出した利益の不合理に大きな部分、本来自分達の取り分のはずのものが福祉や社会保障に回されてきた。肥大化した社会保障は、人々の勤労意欲を殺いできたばかりでなく、社会保障を運営する官僚の支配を招き、社会が非効率で硬直化したものになってしまった。これでは生産性の向上も、社会の経済発展ありえない。
この彼らの主張を力づける社会変動が旧社会主義国で立て続けに起きた。社会自体の後進性と官僚とその取り巻きの利権構造社会の悪弊により、本質的に偉大な社会実験だったものが頓挫した。1989年にベルリンの壁が、1991年にはソ連が崩壊した。中国も解放政策という名の下に官僚支配の資本主義に転換した。この社会変動が、社会主義は非民主的で非効率であるだけでなく、全ての人を不幸にしかし得ない思想とされ、社会主義に対する資本主義の勝利が宣言された。
彼らの問題提起にも一理はある。彼らの言い分を俗な言い方でまとめればざっと次のようになる。
資本主義が本来持っている経済合理性にまかせれば、行政の累積赤字も解消する。俺たちがもっと自由に金儲けでくるようにしろ。考えてみろ、いいことばかりじゃないか。できるだけ何もしない、規制を撤廃して行政として何もせずに俺たちの自由にまかせれば、効率よくなんでもできる。余計な公務員はいらないだろう。俺たちの効率のいい企業で雇ってやる。行政がやってたら、利益も出ないが、俺達にやらせれば利益もでるし、税金も収められる。そのためには、投資を促進しなきゃならないから、投資しやすくするために投資に対する行政支援をしろ、投資で得た利益に対する税率を下げろ。市民団体なんかが何を言ってきたって、放っとけ。あいつらの話を聞いても金にならないだろう。もう一つ、大事なことがある。貿易ってのは物の輸出入に限れてきたろう。それを自由化しても受けやすくはなったが、本当の儲け口は物の売り買いじゃない。証券や債権、とくに自由に作った債権を国境を超えて自由に売買できるようにしろ。何をしない方がいいお前たち(行政)だが、これだけはやってもらわにゃ困る。
彼らの主張は、株式会社にかぎらず、どのような“もの”にでも適用され、持てるものが持てるものから派生してくるもの−利益を所有する権利がある。大恐慌と二度に渡る戦争という高い授業料を払って、この原始的な資本主義では社会に及ぼす弊害が大きすぎて社会として許容し得ないことを学んできた。ところが、時間の経過と供に学んだことが薄れ、やおらもたげてきた金銭欲がまるでがん細胞のように制御不能な自己増殖を繰り返し、挙げ句の果てが、金融危機だ。
たとえお題目にすぎなくなってしまったとはいえ、戦後独立を果たした第三世界の国々もそこに住む住人(国民と呼ぶべきか)に対して基本的人権の尊重を謳っていた。世界中が大多数の人々が平和で豊かな生活をおくれる社会を作ろうとしていた。国家としても、個人としても法的に独立を果たしても経済的に従属していたのでは、本来の独立がありえないことに気が付いた。極端な富の偏在、一部の社会層が富の大半を所有しているような社会では、社会が安定しないことを歴史から学んだはずだ。ジニ係数が0.4を超えれば暴動などの社会騒乱が起きやすくなる。
彼らは主張する。“結果の平等”は怠け者をますます怠け者にして社会の発展を阻害する。“結果の平等”ではなく、“機会の平等”こそが一所懸命働く“まともな”人達にとっての“平等”だ。努力もせずに“結果の平等”を主張するのは崩壊した社会主義と同じじゃないか。この強者の論理にすぎない主張が規制撤廃、競争原理の徹底や株主価値の最大化を目的とした企業経営、経済効率の追求という美名のもとに御上の筋からでてくると、流石、日本、ころっと騙されて賛成どころか推進役までしかねないお人好しが多い。
一歩下がって考えれば自明の理のはずだ。持って生まれた先天的な能力で全ての人が同じではないし、努力や機会によって後天的に得た能力でも全ての人が同じではない。人は先天的、後天的能力において違いがある。 さらに、ある世代が“結果の不平等”によって社会的に恵まれた地位を得ると、その“結果の不平等”が次の世代には“機会の不平等”として“チャンスの不平等”として引き継がれる。先進国に生まれ育った人達と貧困にあえぐ発展途上国に生まれ育った人達の社会や生産能力の差はどこから生まれるのか。先々代、先代、。。。の“結果の不平等”が次の世代の“機会の不平等”として世代を超えて引き継がれてきたからだろう。
強者の理論で社会をつくっていったらどうなったから、どうなるか、繰り返すが、散々学んできたことででしかないはずだ。“強者の力を抑制、制御して、弱者でも生活しやすい社会”以外に目指す価値のある社会はありえない。弱者でも生活しやすい社会こそが誇るに値する社会だろうし、守ってゆきたい社会だろう。
富国強兵政策のもと国民の犠牲の上に築き上げられた軍事国家を誇りに思うように教育された世代があった。高度大衆消費時代の掛け声以降、労働の対価を過小にしか払わずに高度成長を遂げ世界市場で優位に立った企業を誇りに思う社会風潮のなかで育った世代があった。過労死が英語にまでなって久しい。そろそろ、真に誇れる社会を考えるときじゃないかと思う。
90年頃に死刑宣告を受けたマルクスが新古典派経済学を飲み込んで今風の衣装を着て、そろそろオレの出番かと待っているような気がする。