社会を変える人たち(改版1)

七十年代後半から八十年代初頭にかけてニューヨークに駐在していた。駐在員がエリート社員だった時代は数世代前までで、当時、駐在員は日本の本社にはいなくてもいい人材、海外に出してうまく化ければ儲けものという、どちらかといえばデリート社員だった。そのため、給与もたいしたことなかったし、社内での立場も危ういものだった。
言葉は不自由、金もろくにない日本人が知り合いになれるアメリカ人は限られていた。現地の日本人社会に埋没してゴルフやマージャンに明け暮れるのもたまらない。仕事と私生活をきちんと分ける文化もあって、仕事で出会った中流階級のアメリカ人とは仕事での付き合いまでで私生活での友人関係にはならない。ましてや、その上の階級の人たちとは出会う機会すらなかった。
日本人社会を離れて、独身だったこともあって、マンハッタンやブルックリンの危なかしい裏路地をうろちょろしていた。うろちょろしていれば、それなりに知り合いもできる。ただし、知り合いになれるのは中の下というより下の人たちだった。いくら頑張ったところで断片的にしかアメリカ社会をみれない。まして上や中はみれっこない。ならば、思い切って下を見てやろうと変な日本人が入り込んでいった。普通の駐在員なら間違っても足を踏み入れることのない地域、社会層の人たちと親しくなって、彼らのソサエティに一員のようになった。
仲間になってしまえば、気のおけないいいヤツばかりだった。ただ、仕事で彼らを雇用しようとは思わない。まともに学校教育も受けていないし、労働意欲も、もし、あったとしても、それだけかというレベルで使い物にならない。そんな人たちとの付き合いが長くなって個々の事情が分かってくると、彼らの能力や姿勢が個人の問題である以上に、彼らが生まれ育った地域社会や家庭、文化の問題であることに気付かされた。
ところが、当の本人たちはどうもそうは思っていない。彼らの社会観の最も基本的な部分に、世界で最も豊で自由な国、アメリカがある。アメリカのありようが世界でベストで、それ以外の社会のありようを考える、想像する能力というより発想がない。そのため、そのベストと信じ込んでいる、あるいは信じ込まされている社会の広い意味でのルールで、その立場や環境におかれているに過ぎないということに気がつく機会もない。そこからは、現状の社会のなかで彼らなりにうまくやって行く−とるに足らない些細な良かったこと、悪かったこと、上手くちょっと儲けた、損をしたということ以外にはでてこない(荒唐無稽な夢はあるが)。「環境が人間を支配する」というのは真理に聞こえる。
当たり前のことだが、そこからは社会の進歩は生まれない。社会の進歩は、個人の問題に帰着されている社会の問題を解決しようとする人たちが違う社会のありようを思い描くことから始まる。「環境は人間を支配する」から「支配する環境を否とする」が社会の進化の始まりで、これは、現状の環境下では恵まれっこない人たち、あるいはそのような人たちや社会層があることを問題とする知識階級からしか生まれない。
一時は一億総中流意識などと言われ、安定した社会を誇った日本が、この二十年ちょっとの間に新自由主義と呼ばれる経済政策のおかげで貧富の差が拡大し、当時のアメリカの下層社会に似た社会層が生まれてきている。その根底には新自由主義がもたらした、アメリカに似たような社会、経済構造へ変化があるとしか思えない。
七十年代以降、ノーベル賞に輝くとてつもなく優秀な数学や経済学の先生方とその使徒らが、アダム・スミスの時代には“見えざる手”と呼ばれたものを同じように“見えざる手”と呼びながら、実は“見えない手”、あるいは“見にくい手”にして、人々に目につきにくいかたちで少数の富める社会層が益々富み、一般大衆が貧しくなる社会に進化(退化?)する処方箋を書き上げてきた。政治的にも経済的にも強者の立場にいる社会層が、自分たちの利益のためにその処方箋を必要とした。先生方のご高説というのか呆れた能書きの高揚期が過ぎて、副作用以上に処方箋自体の誤りが誰の目にも明らかになった途端、その先生方、なんのことはない、昔からどこにでもいる“ご用学者”に過ぎなかったことに気がついた。たとえ、ご本人らがそのようなことは意図していないと主張したところで、第三者の目で社会のなかで彼らの役どころを見れば、一般大衆にとって迷惑極まりない“ご用学者“にしか見えない。
七十年代後半には、ヨーロッパや日本の製造業に淘汰されるかたちで米国の製造業の衰退が加速した。製造業の衰退が中流(中間)階級の主要部分を占めていたブルーカラーワーカの社会的低下を招いた。多くの人たちが中間階級層から下層階級に押し込まれて、一部の富裕層と大多数の下層階級への社会の二層化が進んでいった。
当時、アメリカ社会は社会的、経済的に相当傷んでいた。傷んではいたが、今の日本と比べれば、全人口も労働人口も増え続け、社会も経済も成長し得る基礎的な力を持っていた。当時のアメリカと今の日本のありようを単純に比較しても意味のあることとは思わないが、今の日本で広がり続ける社会層間の格差の拡大と社会、経済の縮小均衡への変遷を見ていると、どこかで社会の主要構成員たる人たちから社会構造を変革する動きが出てくるはずだと期待している。その動きの中核を背負って立つのは今の社会構造では恵まれない環境から抜け得ない社会層の人たちだと信じている。
2013/12/22