所属がなければ自分がない?(改版1)

仕事で初めて会ったとき、外向きのかるく微笑んだ真顔になって、社名(所属する組織名)に続けて氏名をつげる。かたちながらも頭を下げて、両手でもった名刺をさしだす。どこにでもあるビジネス上の自己紹介なのだが、それをはたして自己紹介と呼んでいいのかわからない。というのも、社名を言うことによって、はじめて姓名を言える自己紹介では、会社があってはじめて自己が存在しえる、会社が主体であって、自分はその付帯物にすぎないと言っているような気がしてならない。

それがビジネスにおける自己紹介だということなのだろうが、こんなことを数十年続けていると、社名ではないにしても、所属する組織を言わないと自己紹介できなくなってしまう。あまりに当たり前になってしまっていて、何を気にすることもなくそうしてはいるが、ちょっと考えるとなにかおかしい。組織がなければ自分がないなんてことはありえないのに、それを当たり前として、なんの疑問ももたなくなっている。

人は相手が何者なのかを、その相手が所属する組織から、さらにその組織内での立場から判断してきた。昔は部族名や居住地方名からその人の素性を想像することも多かったろうし、氏名の「氏」が所属する組織を表した時代もあった。今は、純粋に個人的な出会いか、組織に所属していない、あるいは、所属する組織を相手に知られたくない場合など特殊なケース以外では、所属する組織名を姓の前につける。

著名な人であれば、ただ名前を何度か聞いたことがあるという程度でも、姓(ときには氏名)を聞けばその人が誰なのかが分かる。そこでは、素性を知ってもらうために所属する組織を明らかにしなければならない通常のケースとは反対のことがおきる。個人として、少なくとも姓あるいは氏名が知られているため、その人が何なのかを示す組織(名)を必要としない。

一般の社会人―勤労者にとっての組織名は社名になる。社名の付かない姓は、記号のようなもので相手に何の判断基準も提供しない。聞く相手にとって、理解か誤解か、たとえ偏見であったとしても、聞いた社名がなんらかの「いい響き」を持っていれば、その社名の後ろについてくる姓、その姓を語った人も「いい響き」で、いい素性の人と判断される。聞く人の個人の社会経験から、聞いたこともない、あるいは、「良くない響き」の社名であれば、ただの記号に過ぎない氏名も「良くない響き」の社名と一緒にされるか、記憶にも残らない。

社名を先にしたビジネス上の人間関係では、個人としての能力や人柄、築きあげてきた信頼など人と人とのつながりの最も大事なものが、姓の前にある企業としての、あるいは企業があってはじめて姓が生きる類の脆いものであることが多い。正しくは、脆いものなのではなく、個人としての自覚に欠ける人たちが脆いものにしているのだが、これが変わるとは思えない。

転職すれば、姓の前につく社名が変わる。ビジネス上の関係ででしかなければ、相手は姓=個人ではなく、自分の認識に基いて以前の社名と新しい社名の比較も含めて、転職先の企業とのビジネス上の関係からしか転職した人を評価しない。転職した人の生き様まで含めた個人としてのあり方など相手にとってはどうでもいいことで、多くの人は、転職の良し悪しさえより名の知れた企業への転職かどうかで判断する。

人としての成長や職業人としての能力の多くが企業という組織での業務を通して培われるが、培われたものは企業にではなく、個々の人に残る。それを持って不安もあるが、それ以上の自信と自負をもとに職業人として企業を移る。移ったとたんに姓の前にある社名が変わる。多くの人が自らの知識と能力で、姓の前にある社名で人を(誤)認識する。人でもモノでも、真の価値判断をする知識も能力もない人は、付いているブランド(社名)ででしか評価できない。

その程度の人たちの評価を気にして生きる気はさらさなないが、いいかげんに企業という代紋からしか人を評価できない、しようとしない社会から、お互いの人間性や社会認識、能力や志向など、もっと人としての根源的なあり方からの関わりあいの社会に近づけないものかと思う。

この近づけない現実の一つの現れとして興味深いというのか、あまりにも寂しいものがある。居酒屋で偶然隣りあった人から自己紹介されて驚いたことがある。お見受けしたところちょっとご年配。引退されて何年か経っているだろう。それを自己紹介と呼んでいいものかどうか悩むが、退職された会社の名前がでてきて、実質としての姓がない。氏名には言葉の重さがなくて、言っても、聞いてもしょうがないという話かただったのだろう。聞いたような気はするが、話を聞き始めたときにはもう記憶になかった。確かに社名抜きでお名前をお聞きしても何の意味もない。それにしても、氏名抜きの会社の話し。現役時代にはご活躍されたのだろう。それを偲ばれるの結構だが、話には何をしてきたかというのがなくて、話してもわからないだろうと思われたのだろうが、所属した組織の名前までしかでてこなかった。

誇れる過去があるから引きずるのだろうが、今日のあなたはいったい何なんですかという素朴な疑問がある。故人でもあるまいし、新聞や雑誌にブログ……、氏名のあとにある「元xxx」を見るたびに居酒屋での話を思い出す。
どこの代紋も組織も関係ない。ことは自分自身の、今の自分のことである。なにがなんでも、自分で自分を紹介できないというのはないだろう。特別なことはなにもない。年金生活者でも、無職でも、市井の一私人でも、遠山の金さんではないが、遊び人でもいいではないか。会社があってはじめて存在し得る「会社人」から足を洗って、立派な一個の「社会人」になったのだし、もう「元」を止めて、今で語ったらいかがなものか。
2018/8/26