自由競争と経済縮小

ほとんどの人が消費者と勤労者の二つの立場を持っている。二つの立場の名称を明確な定義なしで、曖昧なまま使わせて頂く。ざっくりと全体図を見渡すだけの目的には曖昧なままの方が分かり易い。
消費者の立場としては、ものは安い方がいい。なかには些細な違いを求めてか、極端な場合には見栄のために故意に高いものを買う人もいるし、買うこともある。しかし、一般的には、価値相応の出費はしても、できるだけ安く買いたいと思う。そのため、時折々のバーゲンセールやディスカウントストア、さらにアウトレットモールが人々の関心の的となる。最近では店舗でものを確認して、これと思うものをネットで探して一番安いところで買うとうパターンも増えている。
だが、その消費者を相手にした仕事をする側−勤労者の立場からすれば、同じものならできるだけ高く売りたい、買って欲しいと思う。高く売ったほうが、所属する企業の利益が増え、勤労者への分配−給料やボーナスも増える可能性が高くなる。
一人の個人が一方では消費者としてできるだけ安く、一方では勤労者(供給者側)として、できるだけ高くという相反する二つの立場を持っている。
マクロの視点でみれば、産業革命以降、生産力が消費能力を上回り、作れるから売れる(消費が可能)のではなく、消費があるから作れるようになって久しい。これを素直に消費者と勤労者の関係に展開すると、消費者の立場の方が生産者=勤労者の立場より優位にあってしかるべきと思うのだが、どうもそれほど単純ではない。
消費者にボイコットされれば、企業としての存続すら危ういほど消費者の力が強くなったのも事実だが、それでも消費者の力は特殊な場合を除いて大きな力にもならないし、影響力も限られている。なぜか?勤労者として所属する企業が情報のすべてを握っていて、自らに都合のよい情報しか消費者に与えない。情報公開を推し進めようとしたところで、自らの不利益になる情報をおいそれと出す企業も組織もあるわけがない。言ってみれば、消費者は常に、あたかも、釈迦(企業)の手の上でうまく踊らされる孫悟空のような存在ででしかありえない。
それでは、この状態を改善する方法はないのか?と聞かれれば、ある。現実に目の前で改善?が進行している。レーガン、サッチャー以来、市場原理主義が改善をまるで絶対善として推し進めてきた。企業が情報を公開しようがしまいが、企業にできるだけ自由に競争させ(資本主義、自由主義の根幹のはず)、消費者側にできるだけ多くの選択肢を提供すれば、企業(売る側=勤労者)と消費者の力関係が逆転する。
では、企業間の自由競争を促進すれば、消費者と勤労者の二つの立場をもったフツー人達にとって得かと言えば、ここでも、ことはそんなに簡単じゃない。ここで最初に掲げた問題に戻ることになる。規制を極力減らし、できるかぎり企業間で自由な競争をさせれば、必ず企業の利益が減り、少ない利益(率)で存続できる体制の企業が勝ち残る。生き残るために、企業は常に今まで以上にコストを削減し続けなければならない。言い方を変えれば、同業者よりコストを削減し得た企業が生き残る社会になる。
コストを下げられれば、販売価格を低くしても企業の利益も確保できるのだから、何が問題かと思われるかもしれないが、自由競争下では、多少でも多く利益が確保できるところには必ず既存企業の存続を脅かす、さらにコストを削減した競争者が参入してくる。それが、資本主義が標榜する自由競争の自由競争たるものだろう。だれも安穏とはしていられない。コスト削減により経理上生み出される生産性の向上ではない、なんらかのイノベーションによる(真の)生産性の向上が限られているところで、自由競争が続けば、企業利益−企業の内部保留とステークホルダ(株主や従業員など)−の逓減が避けられない。
市場原理主義は、企業間の自由競争に絶対善の理論的根拠を与えただけではなく、企業利益の分配にも原理主義=株主資本主義を持ち込んだ。曰く、“株主が企業の所有者。” 故に、“株主の利益が最優先。” 実に簡単明瞭。それは、企業は社会のなかの一構成要素に過ぎず、社会全体の関係者の利益を無視した企業活動はありえないという当たり前ことを忘れている。それでも、その(持ち込まれた) 持ち込んだ株主資本主義が都合のよい社会集団が政治経済の実権を握り、間接、直接に企業経営を掌握し、少なくなった企業利益のうちから少なくはない、ときには今までより多い分前を株主に提供してきた。小さくなったパイの小さくなった分に比例して小さな取り分ではなく、小さくなる前と同じ、あるいはもっと大きな分を、株主が企業の所有者の当然の権利としてとして取る。その結果、企業は内部留保の確保どころでなくなりかねないし、従業員は最弱者として小さくなったパイのさらに小さくなった分にしかありつけないことになる。
方や消費者として、方や勤労者として、一方の立場に都合が良いということは、他方の立場では都合が悪い。それでも、このジレンマがジレンマに過ぎないうちはまだいい。問題は、ジレンマがどこでどのようにバランスし得るのかと問うことに意味がありそうもないことにある。もし、そこにバランスがあったとしても、人為的な操作がなければ-規制のない自由競争下では、そのバランスは常にある方向に動き続けて止まらない、あるいは動き続させようとする圧力が働き続ける。本質的な生産性の向上がない状態で市場原理主義が絶対善とする自由競争が進めば、価格と利益の逓減と同時に勤労者の実質収入を減らす方向に動き続ける。純粋に、完全に無作為な市場任せの自由放任経済体制で生産性の向上がなければ、ものは安くなるが、それ以上に勤労者の所得は減り、購買力が低下して経済が縮小する。経済は必然としてデフレ方向に動き続け、経済の縮小を避けられない。
株主利益で潤う社会集団の余剰資金はより高い率の利益を求めて経済成長率の高い海外に投資される。
巷で偉い方々が時に応じて経済政策云々ということでお題目にしかならない御託を垂れているが、的外れか詭弁、あるいは問題の本質を隠蔽するためのプロパガンダに過ぎない。これが、この二十余年間、目の前で起きていることに他ならない。
2013/03/10