専門家という困った人たち(改版1)

市場開拓と販売体制の構築を主業務として、互いに関連はするものの、いくつもの業界と企業を渡り歩いてきた。おかげでというのも変だが、それなりに多岐に渡る業界でさまざまな立場の人たちと会えた。ただ多岐に渡るといっても、一社以外は伝統的な製造業だった。例外の一社は植物工場を提供するエンジニアリング会社で、経験してきた業界とはかなり様相が違っていた。農学に関係したかなりの数の研究者や学者先生がたとお会いして、失礼とは思うが、ちょっと荒っぽくひとくくりにすれば専門家という人たちの特異な一面を垣間見る機会に恵まれた。

誰が言い出したのか知らないが、植物工場は第六次産業だという人たちがいる。農産物の生産ということで第一次産業、植物の育成環境を人工的につくりあげることから第二次産業、そして生産物を消費者に届ける流通や小売の第三次産業。このすべてに投資資金という金融業や行政まで関係している。一次と二次と三字を合計して、第六次産業。言葉遊びの気がしないでもないが、それは事実で、植物工場を作り経営するには、広範という言葉が大げさでない知識が要求される。

科学(Science)や技術(Technology)に限らず、全ての学問で研究分野の細分化が進んでいる。細分化することによって新たな発見もあるし、新たな課題も見えてくる。もう旧来の百科全書のようなアプローチでは先端領域を切り開けない。
科学や技術の先端を争う世界では、誰もが研究者として学者として一番乗りを目指さなければならないが、なかにはご同業の二番煎じになる業績編集や解説者のようなポジションで生きる道を探す人たちもいる。競争の厳しい大通りを避けて、主流やその傍系の人たちが目を向けない裏町の路地の隅に研究領域を設定することで安住の地を確保する人たちもいるだろう。
ポジションのとり方はさまざまだろうが、どのポジションをとっても学者や研究者であろうとすれば、避けられない宿命がある。特定の学問領域のなかの、そのなかでまた細分化、再細分化された狭い部分に特化した専門家でなければならない。

細分化、再細分化された部分に特化すれば、必然として、特化した狭い一部分が特定領域全体のどこに位置しているのかすら判然としなくなる。狭い部分に特化すれば、科学や技術の全体からの影響も少なく、科学技術の進歩が彼らを知らなくても特別なんの不都合もない環境を提供している。自分の特化した研究領域以外は、あたかも空気のように意識することなく存在しているものになる。
全体像も周辺領域を知る必要もなく、知るために消費する能力や時間を費やすことなく、視野狭窄に陥ったような学者や研究者によって狭い部分の研究が進められ、それが科学技術全体の進歩を確かなものにしてきたし、これからもしてゆく社会構造が出来上がっている。そして、一つの大きな陥穽にはまり込む。狭い専門領域以外では、学者も研究者ももてる知識という点では、一般大衆と何ら変わらないという当たり前といえば当たり前のことがおきる。

日常生活に不可欠な社会インフラ、例えば上水システムや電力、鉄道網、金融機関のATMなどが、それを構築し運営してゆくのにどれほどの資本や知識と労働が必要であることを知ろうとしない大衆の一般的な知識と学者や研究者の一般的な知識の間にはたいした違いがない。違いがあるとすれば、一般的な知識においては、一般大衆の方がよほど知っているということぐらいだろう。

スイッチを押せば電気がつく、蛇口をひねれば水がでる、ATMで紙幣を引き出せる。ほとんどの人がそれを可能としている、後ろで稼動しているシステムを知らないし、知ろうともしない。その人たちにとっては、そんなことは専門家に任せればいいだけのことで、素人を自認する大衆が知らなければならない理由はない。人々には便利になった。その便利になった状態が常態、当たり前になってしまっただけにすぎない。大衆は自分が細かなことまでは知らないことを自覚していて、知っているようには話さない。
ところが、専門化の極みにいる学者や研究者のなかには、己の狭い部分の専門家ででしかないにもかかわらず、専門家としての驕りや慢心からか、あるいは売名か経済的な目的のためか自己の専門分野の周辺から、さらには他分野においても専門家として振舞い、権威を振りかざす人たちがいる。

ちょっと荒っぽいが専門知識という点からみて、人々を専門知識のある専門家と専門知識をもちあわせない一般大衆の二種類に分けられるが、学者や研究者、専門家はそのどちらにも分類できない。狭い專門分野の突出した知識はあるが、それ以外の分野のこととなると一般大衆と同等、多くはそれ以下という人たちで、この人たちのために三つ目の分類項目が必要になる。

随分昔のことで、疎覚えだが、確か御用提灯をぶら下げた社会学者が原子力安全委員会の一員として原発の安全宣言をした。テレビや雑誌によく登場してくる専門家と呼ばれる人たちの話を聞くたびに、何の、どの狭い分野に「限って」の専門家なのか、話していることがその狭い特化した專門分野内のことなのか、その狭い專門分野の専門家が発言し得る話題なのかが気になる。気になるくらいの話であるうちはいいのだが、しばしば要を得ない、的外れというより一部の社会層への利益誘導としかとれない話をされると、專門家というより專門家ぶった芸能タレントのようにさえみえる。
ご高説をふりまく專門家と言われる、あるいは自称している人たちの多くは、大衆をミスリードしかねない危ない、困った人たちではないのか。この専門家という、たとえ枝葉末節であっても「知ってる」と「知らない」の二つの顔をもった人たちによって社会が進歩してきて、これからも進歩してゆくしかないのかと思うとちょっと暗澹たる思いになる。
2017/5/7