「ジャパン・アズ・ナンバーワン」

学校を卒業してそのまま入社した機械メーカで五年ほどたったとき、日本には、いない方がいい人材として米国支社に放り出された。当時は、1ドル360円、外貨持ちだし規制もあって海外は遠い存在だった。そのうち仕事で英語を使うことになるかもしれないと漠然と感じていたが、まさか英語で生活するはめになるとは想像だにしていなかった。これがきっかけになって、その後、転がり込んできた仕事を請け負うような感じで、米国系とヨーロッパ系の外資をいくつか渡り歩くことになった。時には日本の企業に呼ばれて、時代に取り残されたような日本の会社に戻ったこともあるが、そこでも仕事は海外市場だった。日本企業の海外か、外資の日本市場相手の仕事に終始してきた。ある特定の業界のと限定しないと正しくないのだが、一般的に言えば、日本の製造業が世界を席巻した時代に、片足を日本に、もう一方の足を欧米に置いたような仕事を続けてきて、そうでない方々、海外といっても東南アジアまでの経験しかしていない方々との見える景色の違い、多分その違いから派生してのだろうと思える仕事の仕方の違い、市場うんぬんから始まって社内を通って、社会の見方など、どう説明したらいいのかと思う違いを感じてきた。
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」というのは典型的な宣伝文句以外のなにものでもない。宣伝文句とは、詳細な知識を持ち合わせていない一般大衆を惑わすことでなんらかの利益を得ようとする社会層---営利企業であれ、行政であれ---が使うものだ。この宣伝文句は、ある特定の領域をある特定見方で、ある特定の時間の流れのなかで見た時にしか、その意味すらないことを歴史が証明してしまった。日本にいて、日本から出ることなく、日本を、世界を日本からしか見えることの、考えることの出来ない人達に、都合のよいデータ(だけ)を目の前に見えるものとして提示すれば疑問の余地のない事実に見える。都合のよいデータを使って、実に説得力のある説明が可能になる。ちょうど天動説のようなものだ。理由はどうであれ、それなりの社会的立場にいる人や組織が太陽を指さして、地球の周りを太陽が回っていると言ったら、巷の普通の人々がその話は絶対正しい、疑義を挟む余地のないもと思う。これで、天動説−地球の周りを太陽が回っている−ができあがる。
ここでちょっと脇道に逸れるが、“日本”をxxx県、あるいはxxx株式会社と置き換えたら、意外な?視点が見えるかもしれない。もっとも、これは置き換える思考実験をする能力のある人にとっての話だが、
今までお会いした方々からお聞きする限りでは、東南アジアまでのご経験しかない方々も、日本と東南アジアの経済的、技術的関係から必然的に生じる制約からだろうが、視点は日本からのもの、日本が圧倒的な立場にいて、東南アジアが日本の経済進出でという一方的な視点ででしかなかった。なかには現地でも、現地の言葉でないのはしょうがないとしても、英語も使わず、日本語一本で押し通してきた強者?まで何人かいた。
個人の消費生活では、使っている物やお世話になっているサービスからインフラまで、日本の社会も技術も産業も十分過ぎるし、これ以上のものはないように見えてしまうことが多い。ところが欧米の先進科学、それを実用化してきた産業界の一部にでも関与したことのある人達は、日本の科学も技術も、それを生み出し育んできた広い意味での社会にも遥かに及ばないものがあることを痛感してきた。この彼我の差が決して小さくなっているようにも見えない。日本の社会と科学が乗り越えられない、追いつききれないものがある。この実体験から、そのような人達は、日本が、自分達がジャパン・アズ・ナンバーワンと豪語できる程度のものでないことを、また、豪語するのは知識不足、認識不足のなせることであることを知っている。
問題は、視点を移動して、日本を日本から見るだけではなく、世界から日本を見る、そのための基礎となる経験と知識を得るにはどうしても最低限英語での理解が必須となることにある。世界にはなんでこんなにと思えるほどの言葉が使われている。なかには文字をもたないためアルファベットででしか表記できない言葉もある。あり余る感のある言葉のなかで、残念ながら日本語は共通語足り得ない。日本語を母国語としない人達にとって日本語はあまりに繁雑過ぎる。好き、嫌いの問題ではなく、現実は英語まで出れば、世界の多くの情報にアクセスできる。
誰も全ては分からない、分からないながらも実体験から得られた知識を消化吸収する過程を経て、一般化した汎用性のある知識として再構築する。この過程で、実体験で得られた知識を分解、分析して、消化吸収し得る知識に変換する能力が不可欠となる。日本を日本からしか見えない人達の多くが、目の前にある事実を多面的に認識する“認識酵素”も、認識した事実を分解、吸収するための“思考酵素”をもちあわせていない。ご本人は、幸か不幸か、そのことに気が付かない。せっかくの直接体験、それによって得られた一次知識を血として、肉として成長してゆく能力が欠落している。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」からバブルの崩壊、その後の日本社会の迷走の本質的な理由の一つに日本からしか日本を見れない能力の限界があるように思えてならない。「井の中の蛙大海を知らず」は古語じゃない。
それでいいじゃないかと思っている、あるいはそれに気がついていない人達が多すぎる。まさか21世紀版の明治“維新”でもあるまいし。維新はいいが世界のなかの日本ででしかありえないこと、世界から日本を見て、日本を再定義し得るほどの方々なら、軽々しく維新という言葉を使うとも思わないのだが。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が単なる宣伝文句としての意味しかなかったように“維新”も空虚な宣伝文句、お題目に過ぎないだろう。宣伝文句やお題目程度で収まっているうちはいいが、まさか尊皇攘夷なんて言い出すんじゃないだろうな。
井の中の蛙でいれば小山の大将でいられるだろう。小山の大将には小山から見える景色しか見えない。この見える景色しか見えないから出てくる、あれやこれやの天動説。そこに群がる人達と、これもちっちゃなお山の大将もどきとその兵卒のような集団。もう、そろそろ覚醒の時だろう。