二つの原理主義

社会学や哲学、ましてや宗教についてなんら勉強したわけでもないので宗教に深入りした話をするつもりはない。ただ、今、世界中で起きているいくつかの問題の本質的な原因が宗教のおこりのようところから、あるいは宗教そのものから生じているように見える。そのため、ちょっと遠回りになるが、宗教から話を始めることにした。
困ったときに神頼みとはよく言ったもので、順風満帆とまでは行かないまでも、そこそこ自分で考えて、自分の能力で処理できる状態にいるかぎり人は神に。。。とはならい。自分ではどうしていいのか分からなくなって、知り合いに相談してもなにもない、どうしようないところまで追い詰められて、疲れて気持ちが萎えて神にたどり着く。こういうと世界には宗教が日常生活の規範となっている国や地方、民族もあるし、自然にも恵まれて豊かで穏やかな生活をしていて、何も困っていないにも拘らず、日常的に宗教と緊密なかかわり合いを持ち続けている人達もいるではないかと反論がでてくるだろう。確かに、その通りなのだが、これは二通りに分類して説明がつく。一つは、超自然的なものを、宗教がかたちづくられる時点で得ていた知恵に対してそれなりに納得のゆくかたちで、自分や自分達に咀嚼させなければ落ち着かない知恵を持ったヒトという生物の性からきている。自分では、自分達では説明しきれない現象やものを神ゆえのものとすることで自分を、自分達を納得させてきた。もう一つは、ある一つの社会体制が崩壊し、次の社会体制の萌芽が見えない、自分の、自分達の生活の今まで規範が全否定されて社会的、文化的恐慌に陥った場合に起きる集団逃避。このような状態では、個人や仲間でいくらもがいても次に寄って立つ規範の想像すらつかない。今までの利害関係や支配関係、価値観の衝突。。。など規範の確立には考慮しなければならないことがあまりに複雑に絡み合っていて、解決の糸口への方向感覚まで失った危機的状態になる。程度の差はあるにしても、このような状態になるとしばしば特徴のある集団行動が起きる。
定見を失い将来を思い描けずに疲れきった人達に、不安の欠片もないように見える確信(盲信?)の人が、否定されねばならない従来からのことを一切合切放り投げて、誰にでも分かる簡単な答え−たとえば、なにがあっても、なくても関係なく“信じるものは救われる。”を用意したら、どうなるだろう。すがり得る何かを求めて集団逃避の先を探している人達には、唱えられた簡単な答えが正しかろうが間違っていようが、真実なのか口先だけのことかは、極端な言い方をすれば、どうでもいい。こうして、一つの宗教が生まれる。集団行動のなかには宗教の要素はなく、単純化の極みとでもいうのか、想像力の貧困からというべきなのか、ただの“復古主義”もある。原始共産社会にまでは戻れないだろうし、どの社会でもそれなりの複雑さがあるはずなのだが、“いにしえ”や“自然”に帰れば問題が解決するのではなく、なくなると主張する集団行動がある。この“復古主義”が将来に何ももたらさないことは言を俟たない。
ところが、今、宗教と復古主義が一体化した、問題を単純化した原理主義が幾つもの国にまたがって広がっている。その運動の震源は、部外者には経済的、社会的に困窮した地域に点在しているように見える。そこには、少なくとも祖父の代からは紛争が日常という人達がいる。フツーの、少なくとも日本人が常識で思う生産活動は数世代に渡って皆無に近く、略奪か横領以外に富−日々の生活の糧−を得る方法がほとんどない。社会インフラもなく、学校教育も極端に限られている。一握りの権力、利権層や、都市部の知的階層や中間社会層を除けば、文盲率が高く、人類が営々と築きあげてきた科学、それに基づく技術の恩恵に浴す機会もない。今の世界の社会一般の知識を得る手段もなく、科学的思考を修得する機会も限られていることからなのだろう、問題を単純化し、非を今の社会のあり方にあるとして、社会の規範を古代の宗教教義に求める運動が続いている。古代の宗教の確立は、古代社会が崩壊したときの集団逃避によってなされたものに他ならない。人間社会が数千年経ってもたいして変わってないということもあるだろうが、宗教教義は、古代社会とその社会の崩壊の顛末でしかあり得ない。集団逃避先として、当時の問題を単純化したもの以外ではあり得ない宗教教義に、また逃避する、するしかない、それ以外には自分の、自分達の存在を規定しえないと考えている?信じている、信じさせられている人達がいる。
問題の単純化と問題の本質からの逃避という点では先の宗教教義による原理主義となんら変わらないもう一つの原理主義がある。こっちの原理主義は米国生まれで、宗教教義の原理主義が経済的に恵まれない社会層、その社会層を生み出した国々から出てきたのに対して、経済的な豊さとその豊かさを(が)もたらした社会の複雑化に対する経済界のリーダー連中の能力の限界から、自らの能力を遥かに超えて複雑化してしまった社会に対峙するのに疲れてしまった、その疲れた人達に取り入ることで利益を得る社会層から生まれた。方や貧しさから、方や豊かさからという違いはあるが、発祥の本質は驚くほど似ている。現状に、目の前の問題に対処しきれなくなった上に、益々複雑化するであろう将来のあり方について考えるのに疲れきって喘いでいる人達に、ああだのこうだの、いくら考えても答えのでないことを気にするな。気にするのはこれだけという単純化した視点-株主利益-が提供された。
70年代前半までの米国には、まだ社会の名士として振る舞う余裕のある経営者がいくらでもいた。企業の所有者である株主から信任され、経営に対する自由裁量権を与えられた経営のプロとしての経営者がいた。己の能力や知識、見識にもとづいて経営し、権威や権力を濫用しない自己規制能力のある人達が経営者の資質として求められる時代だった。長期的な健全経営を目的とした経営をよしとする安定株主と不特定多数の声なき株主が企業の所有者で、経営者は株主に代わってよりよい企業にする責任はあるが、短期の利益提供をもとめられることはなかった。
米国経済の疲弊に伴って無節操に市場に出されすぎたドル。この溢れたドルはどこかの金庫に眠っているわけじゃない。実体経済を離れ、金融としての利益、期ごと、月ごと、その日の利益を求めて世界を駆け巡る。それは、経営者に即の上納金を要求する。企業活動の国際化が進み、経営陣が利害調整しなければならない関係者もかつてのように自国の従業員、顧客、地域社会のような単純なものではなくなった。国も歴史も社会も宗教も人種も社会的価値観も、これほどまでに違うかという利害関係者間の調整が経営者に求められた。あっちを立てればこっちが立たずというのを超えて、いくら調整しようにもあっちもこっちも立たない状態。ことの優先度を極限にまで整理しても、責任を外部に転嫁しても調整がつかない。かつてあった経営に関する自由裁量権などどこにもない。あるのは、国際金融からの上納金の要求と調整のつけようのない多種多様な利害関係者からの圧力。金融機関とその手先としての経済学者が、経営者も含めた三位一体の都合のいい理論、まるで、“信じるものは救われる”というように(たとえ高等数学を駆使した結果だったとしても)単純化した社会認識=市場原理主義(株主資本主義)が、疲れきって、その単純化した理論を福音として取らなければならないところまで追い込まれた経営者に浸透していった。
どっちの原理主義もそれがでてくる社会的条件があったし、今もありつづけている。近い将来、この社会条件自体に大きな変化が起こることもなさそうだし、二つの原理主義の嵐が収まるとも思えない。それでも、その単純さ故の強さが複雑な問題を解決するわけもないこと、また、複雑な問題には複雑な答えしかないことを理解している賢明な人達がいる。歴史的複雑さの中で生きてきたところには、幸いなことに複雑な問題に対する複雑な答え出す能力のある人達が残っていた。
2012/12/30