公共投資と公共負債

もう二、三十年になるのではないかと思うが、米国で鉄道敷設の話が出たり消えたりしている。東部のいくつかの都市を除いて通勤など日常生活に使える鉄道網はない。大きな都市の中心部以外は徒歩で通えるような都市として設計されていない。会社はおろか、牛乳一本買うのにも、居酒屋やマクドナルドに行くにも車がなければどうにもならない。どこに行くにも車になる。どんな理由であれ車を使えないと身体障害者のような生活になる。たまにバスが走っている町もあるが、基本的に全ての移動は個人負担の車になる。フツーの人がフツーの生活をしている限り、最寄り駅を尋ねることも、尋ねられることも一生ないし、鉄道を見ることもない。
産業構造の変化で寂れてゆく町もあるが、人口は増え続けている。都市の拡大が進み、Suburbs(郊外)では収まりきらずに、郊外を超えたExburbに経済的に恵まれた社会層が移っている。都市が地理的に広がり、二、三十年前に既に許容限度を超えていた交通渋滞は悪化の一途をたどっている。都市部に住む多くの人が一人で車を運転して仕事に出かけ、帰宅するまで車は仕事場の駐車場に停めておくだけ、いくつかの都市の中心部ではその停めておくだけの駐車料金だけでも、個人では負担しきれない額になっている。上昇するガソリン価格や悪化する環境。。。、誰もが車を補完する公共の足-鉄道敷設を考える。
いくつもの都市で鉄道敷設プロジェクトが検討されてきた。今直ぐ敷設工事を始めたとしても、操業に至るまで何年もかかる。日本から遠目に見ていると、いまさら何も議論することはなさそうに見える。早く始めればいいのに、何をグズグズしているのか分からない。鉄道敷設については、積極的か消極的かの違いはあっても多くの人達が総論では賛成している。また将来のことを考えると敷設すべきという方向性ではかなりのレベルの合意がある。にもかかわらず、いざ敷設プロジェクトを詳細に検討し始めると、似たような議論が繰り返され、お決まりの暗礁に乗り上げる。
都市やプロジェクト、関与する利害関係者によって異なるが、繰り返さえる議論の焦点は、大まかに言ってしまえば次のようになる。まず、誰の費用負担で、誰に便益をもたらすのか?初期投資に見合う見返りはあるのか?初期投資に対する利払いに加え操業コストや保全コストに見合う利益がでるのか?でなければ、操業を継続しえない。もし赤字操業をするようなことになったら、誰がその赤字を補填するのか?初期投資に対する保証を誰がするのか?健全といえば健全過ぎる検討で、されねばならない検討がされている。
ゲティスバーグでなされたリンカーンの歴史的演説の一句“人民の人民による人民のための政治”は、多くの日本人が無意識のうちに崇めているようなものでも、政治屋の軽佻浮薄な口上でもない。それは、日々、自分の、自分達のものとして手にとりうる実の生活のありようを、今も昔も当たり前の有り様を公言したに過ぎない。ここで、“人民”を“住民”に、“政治”を“鉄道”に置き換えれば、米国でなかなか鉄道が敷設されないのが、多くの日本人が思うようにいつまでたっても鉄道敷設すら決められないというアメリカ社会のマイナス面だけでないことが見えてくる。 “住民の住民による住民のための鉄道” ここで住民とは一体誰のことか?一口に住民といっても一枚岩じゃない。鉄道が敷かれたところで利用する可能性が全くない人達や社会集団にしてみれば、自分達が収めた税金が自分達になんの恩恵ももたらさないところに使われることには異議がある。都市の喧騒をさけて、SuburbsからExburbsにまで逃げてきたのに、そこに鉄道が敷かれれば、鉄道の利便が豊でない人達をExburbsに吸い寄せる。そうなれば不動産価値も下がりかねない。さまざまな立場の住民達が、自分達の立場で主張し合う。主張し合っているからなかなか決まらない。
この決まらない、決め切れない米国と恐ろしいほど違う国がある。中国では、さすがに住民の住民たる権利を主張するニュースを耳にするようになったが、国家(誰が国家なのかについては別の機会に譲ることにして、ここでは非人称の国家としておく)主導で、歴史的にも驚異の速度で高速鉄道網や高速道路網の建設が進んでいる。経済成長がそれを可能にし、またそれが引き続く経済成長を可能にするものとして、(環境問題を外部不経済として)多くの人達が賞賛している。賞賛に値するものであることに異を唱える気はない。ないのだが、広い中国、田舎の零細農民にしてみれば、高速道路を車で走ることも、高速鉄道に乗ることも一生涯ないというのも結構多いんじゃないかと想像している。その人達から徴収された血税が都市部の経済成長を担ってきた、これからも担うであろう社会層の利便のために、米国のような議論や検討を経ることなく充当されてきたし、これからもされるだろう。
産官の利権が絡んだかたちで、日本は米国よりはるかに中国に近い考え、やり方で経済や社会を運営してきた。新幹線も高速道路も、橋もトンネルも道路も、それを使う機会のない人達にとってはさしたる価値もない。そのような人達にも、経済成長の結果としての物質的な豊かさが間接的にもたらされたではないかと主張する人達もいるだろう。だが、中央と地方の中核都市が直結した結果、そのすき間に多くの町や共同体が埋没していった。そこにあったはずの、そこに住んでいた人達の生活も文化も、そこに住んでいた人達の意思や都合、希望や利益にかかわりなく、そこに住んでいた人達の血税が使われて消されていった。
公共投資というが何をもってして、誰をして公共と呼ぶのか?誰の負担で、誰の直接、間接の利益のための投資なのか?公共の負担であることは間違いなさそうなのだが、誰が誰の利益のために何に投資しようとしているのか?議論ばかりでなかなか総意として決まらなくなる可能性もある。だが、いつまで、今までのような突貫工事を続けるのか?もうそろそろ大人の社会に脱皮するときじゃないか?理を尽くして話し合う、時間がかかってもしょうがない。それが民主主義ってもんだ。時間をかけて多くの人達が納得してのことだからこそ、自分達の社会、国だと思う気持ちや誇りも生まれてくる。ここから必然的にまともな社会意識をもった次の世代が育ってくる。そこでは愛国心教育だとか美しい国だとか、口幅ったい口上は言うことも聞くこともないだろう。
今までのような利害関係を隠蔽したままの公共投資じゃ住民に公共の負担を強いる公共性ってもんがなさ過ぎる。既に、多くの人達と次の世代には何の恩恵もない、公共の負担だけが残る馬鹿げたことを散々してきたじゃないか。もう、いい加減に終わりにしなきゃと思っていたら、また始まりそうな。ここでは、何時まで経っても物はできても人はできないなとも思いたくないのだが。
2013/01/06