次の世代への責任

多分在籍していた先生のせいだろうが、子供が通っていた中学校では合唱が多かった。年に一度の合唱祭という全校をあげたイベントだけでなく、毎月のようにミニ合唱イベント?があった。そのため、放課後によく合唱の練習があった。
合唱では、最前列に並んだ子は多少は目立つが、目立つのはやはり指揮者と伴奏のピアノを弾く生徒の二人になる。この二人のうちで、ピアノを弾く子はピアノの影に隠れてちょっと見た目には以外と目立たない。誰の目にも抜きん出て目立つのは指揮者の子になる。ピアノを弾ける子がどのクラスにも数人はいる。ピアノの上手下手、選曲の難易度に応じて、この数人が持ち回りで伴奏役をすることになる。ピアノを弾けない子は候補としてあがりようがない。このあがりようのないことは、クラス全員が好き嫌いにかかわらず納得せざるを得ない。
ピアノは弾けないが目立ちたいと思う子は指揮者に立候補するしかない。引っ込み思案の子やそもそも合唱は嫌いという子は立候補しない。目立ちたいとは思っても、多くの子は自分から立候補してまではという、よくも悪くも日本人らしさがあって立候補しない。ここで希な存在として、自信?を持って自薦するかたちで立候補する子がいる。
日本は、義務教育における子供の学業の評価を曖昧にしてきた。拙稿の論旨ではないので、ここで評価は本来どうあるべきかと問うつもりはないし、昔の1から5までの評価の方がいいと言う気もない。ただ、“頑張りました”、“頑張りましょう”というような評価では、保護者も子供自身も、クラスのなかにおいてでしかないにしても自分(子供)がどの程度のところにいるのかすら分からない。それでも、多少の社会認識や知識をもった親なら大体の想像はつく。なかには残念ながらつかない親もいる。希に例外はあるだろうが、親は本質的に“親バカ”である。社会認識と自制の念に欠ける親が親バカぶりを発揮すると誰にとっても不幸なことが起きる。起きることを防ぐ、汚れ仕事を教師もフツーの親もしようとしない。言ったところで分かるような相手でないとして、接触を避けるように努めるようになる。もともと社会認識や自制心のない親子には周囲からの規制も注意もなくなる、あるいは極端に減るので、増長が進む。クラスのなかで何らかの責任ある立場に自ら進むことによって成長してゆくことも多いのだが、このような子、多くは親にも責任や責任を果たすために必要な能力や努力の大きさが振るえる権力の影に隠れて見えない。
オレがオレがの男の子が音楽祭のクラスの合唱の指揮者に立候補した。賢くない男子の一小集団の中心的存在なのだが、天賦の才にも恵まれていないだけでなく、日々の努力をする習慣を身につける機会を失ったまま中学に至ってしまったようにしかみえなかった。不幸にしてその子も、両親もそれに気づいていない。気づくくらいの家庭なら、努力する習慣くらいは家庭の文化としてあるだろう。
呆れた話だが、指揮者をやりたいのはいいが肝心の楽譜が読めない。楽譜は読めなくても指揮はできるとでも言うのだろうかというのがフツーの人の素朴な疑問だろう。教師もほとんどは音楽とは無関係な分野の專門家?で、音楽教育には興味のない先生方も多い。教育のズレとでも言うのか分からないが、楽譜が読めなくても指揮をとりたいという熱意や積極性を評価するという主張もあるだろう。それは、もう音楽教育でもなんでもない、なんでもいいという訳の分からない話になる。英語をろくに話せもしない教師が英語を教えているのだから楽譜を読めない指揮者が指揮した合唱祭なんてのは全然OKですよ、みんなが楽しく、一所懸命やれば、それでいいじゃないですかと、 という当世風の意見が聞こえてきそうな気がする。
子供のうちに努力して能力を身につける習慣を会得しないと、大学などの高等教育を受ける、受けて專門知識や能力を身につける下地ができないまま成長することになる。合唱祭で指揮者をやりたいのなら、まず楽譜を読めるように最低限の勉強、準備をしなければならないことを教師も親も子供に教えなければならない。これをしなければ、楽譜を読めなくても指揮はできると体験して育った子が、将来專門知識や能力を得るために切磋琢磨するだろうか?学校では英語を勉強せずにきた人達から、よく英語が国語の国にゆけば英語がしゃべれるようになるという話を聞くが、体験で拾った英語は海外旅行には十分でも、フツーの仕事では使い物にならない。
指揮者の例では努力しなくても、能力がなくてもヤル気があればできるという、中学だからいいじゃないかという甘えの環境を是認して、子供に努力をする習慣を身に付ける環境を提供しないのは間違っている。目の前の些事から大きく後ろに下がってみれば、今の世代がしてきていることは、前の世代から社会を引き継いで、できるだけよい社会にして次の世代に引き継いでゆくことだろう。もし、次の世代が次の社会を背負って行く能力を身につける環境を提供し得ない世代がいたとしたら、次の世代がどう育ってゆくのか?疑問の余地はないだろう。そこには今の時代に責任を持てないだけでなく、次の世代がまっとうに育つ環境を提供し得ない世代がいる。
2013/5/12