歩く電卓

アジア市場を台湾も含めた中国にインドとその他アジア諸国(ROA = Rest of Asia)の大きく三つのエリアで分けて管理していた。日本は情けないことにその他アジアの一つの国に過ぎなかった。毎週、火曜日か水曜日の朝、三つのエリアがそれぞれエリア毎のマージンコールをすませ、夜、世界の拠点と米国本社がマージンコールを繰り返していた。金融系から流れてきた呼び名だろうと想像しているが、あの会社では、受注と売上数字の確認と営業部隊をプッシュするだけの毎週の電話会議をマージンコール呼んでいた。

ROAでは、バンガロールにいるインド人の上司とROAの各国−シンガポール、オーストラリア、韓国、日本の支社の社長が積み上げてきた受注と見通しを確認する。シンガポールの支社長もインド人だったが、今まで会ってきたインド人とはちょっと違った。働き者で人はいいのだが、口数が多いだけで相手を説得する術では、インド人らしからぬ不器用さが目立った人だった。
展示会とセミナーで日本に初めて来た。マージンコールでの長口上にはうんざりしていたので、日本に来たとしても、一緒にいる時間をできるだけ少なくできないかと算段していた。いくら算段しても、立場上逃げる訳にもゆかず、一週間、朝から晩まで付き合うことになった。口数が多く煩いという印象だけだったのだが、実際会って話してみれば、今まで会ってきたインド人とは違って話をしていたいと思わせる人だった。多少、饒舌なところはあるのだが、押し付けがましくないというのか、よくある己の器を超えて自信が溢れ出るという素振りのない、何か後ろに引いた所があった。

毎晩一緒に夕飯に出かけ、色々な話を聞いた。もう二十年以上シンガポールに住んでいるが南インド出身のタミール人で、家族に姓はなく、姓の代わりにオヤジの名前を使う。彼の話では、インドは日本人が思っているような一つのインドではなく多民族、多分化、もう、“ごたまぜ”のようなところと思った方があっているらしい。IT産業の成長も目覚ましいから、そろそろシンガポールも引上げてインドに戻ったらどうなんだと軽い気持ちで話したら、しっかり受け止められた。両親が年齢なので気になるし、子供にはインド人としての教育もある。インドに戻りたい気持ちはあるのだが、戻れないと言っていた。

それから半年ほど経って、米国本社で本社のキーマン連中と世界各国のキーマンが一同に集まる儀式化した会議があった。そこには在米も含めて少なくとも十名以上のインド人がいた。住んでいるところにも社内のポジションにも関係なく、インド人集団という感じで動いていた。食事のときも会議の席も一緒だった。ところが、シンガポールの支社長だけは、常にその集団からかなりの距離をあけていた。セッションが変わって部屋が変わるときも、昼食に移動するときもROAのメンバー(インド人の上司以外)の誰かと一緒にいようとするのが分かる。明らかにインド人集団を避けていた。

街に気になっているインドメシ屋があるという。午後の会議は出ても出なくても問題ないからと二人で口実つけて昼飯に抜けだした。日本のメシ屋では、肉以外ならなんでもOKというだけだったのが、ここはインド、オレのテリトリー、任せろという感じでウェイターに何か言いながらパッパと料理を注文した。社内のインド人の目のないところでリラックスしているのがはっきり分かる。話す速度まで、いつもの忙しさがない。何がここまでの違いを生むのか?あのインド人達と彼との関係は?遠回しにうまく聞くだけの能力がない。多少のためらいはあったが、なぜあいつらを避けるのかと直截に聞いた。聞いてもいいという雰囲気がそこにはあった。聞いてはみたが、只の偶然だとはぐらかされた。はっきり言ってしまいたいが言えない、言いたくない気持ちが勝っているのが表情から読める。いっときの逡巡のあと、思い出したように紙も製本も粗末な、なかり傷んだ小冊子を上着のポケットから取り出して、ページをめくって、読むわけでもなし引用するわけでもない。ただ、唐突に、ちょっと緊張した口ぶりで、インドではカースト制の軛から逃れるためにヒンズー教からイスラム教に転宗する人が増えていると言いだした。が、それ以上は続けない。言ってはみたものの話してどうなるものでもなしと切り替えたのだろう。とりとめのない社内の話題に戻った。

お世辞半分、事実半分の感じでインドも工業化が進み、随分豊になったじゃないか。実用レベルのしっかりした技術をもっている上にシンガポール支社長としての経営経験まである。インドでは引く手あまたじゃないのか?東京で聞いた高齢の両親や子供の教育の話を思い浮かべながら、そろそろインドに帰ることも考えていいんじゃないかと話したら、予想し得なかった話が返ってきた。
東京から遠目に見聞きするインドと、シンガポールに出てしまってはいるが土着の太い尻尾を持ち続けているインド人が知識としてというより実生活の経験に基づいた、自分の社会としてのインドの理解との徹底的な違い、およびつきようのない違いがあった。遠目に綺麗に見える景色もその景色の中での生活となると全く違うものになるということだろう。

インドは、特にいくつかの都市がものすごい勢いで経済成長している。成長しているのは事実だが、それも外から見るのと内から見るのとでは違う。経済成長と支える基盤ができていないがゆえに歪みが大きい。そこにあまりに多くの人がひしめき合っている。窓の外に空き地に目をやって、どうしようもないという諦めの口調で曰く。あの青々とした低木もある雑草地、インドにはない。皆がすぐ燃料として使ってしまって、あっという間に草木のない地面になる。

インドの経済成長の象徴のように日本人やアメリカ人が口にするインドのIT産業も内実はドンキーワークをしているに過ぎない。コンピュータ関係のテクニシャンレベルの若いのが決められた通りに労働としての作業を繰り返している。何をどうするのかはアメリカ人が決めて、インド人に指示がくる。何をどうするかの検討にも決定にもインド人が関与することは、あっても非常に稀だ。インド人はただ単調な作業をしているだけだ。インテリジェンスは米国にあって、労働がインドにある。

インドのIT系のエンジニアのレベルも上がってきているが、インドにおいては、ほとんどが労働者としてのエンジニア養成までにとどまらざるを得ない。インドの産業界が必要としているのが、まだそこまでだからだ。たとえ数学に秀でた才能があったとしても、何を計算しなければならないかを考える能力や習慣がなければ、ただの歩く電卓みたいなものだ。

ここにインドの限界がある。この限界がゆえに、あるいはその限界をうまく利用して成功したインドの会社もあればインド人もいる。歩く電卓に低賃金という武器を組み合わせて、欧米企業の中間管理職、あるいはその社会層としてうまくとりって、フツーのインド人には想像もできない豊な生活を送っているインド人も多い。歩く電卓の管理屋として成功した人達、その管理屋を介して歩く電卓を使うことでより多くの利益を手にしてきた欧米企業。どちらにとっても歩く電卓は歩く電卓のままであって欲しい。歩く電卓が何をどう見て、何をどう考えて、何をするかを決める能力をつけることは望まない。そのような能力は今成功してきた人達や企業、さらにはその人達や企業を使ってきた欧米企業のマネージメントの存在を脅かす。

ちょっと後ろに引いてみれば誰にでも見えるはずのこの社会としての景色が、集団をなしていたインド人達には見えない。景色の中に入ってしまえば、その景色は見えない。景色を見ようと思えば、景色の外に身を置かなければならない。外に身を置くということは、その集団をなしていた、ちょっとしたインド人エリートではあり得ないということになる。景色の中に入ってしまったが故に景色が見えなくなってしまった人達から景色の話を聞いて、それが景色だと思い込まされている可能性がある。

ちょっとしたインド人エリート達には、たとえ機能が増え、性能が向上したとしても電卓は電卓ででしかないことを証明する存在としての、あるいはもっと積極的に電卓を電卓に押し留める存在としての価値がある。一方、社会層としてその集団から疎外されてきた電卓は、電卓になり得たがゆえに今の己があるという現状、電卓で留まり得ないという自己規定、自らを電卓に押し留めようとする社会に対する否定の気持ちとの間で揺れ動く。歩く電卓であることを是としない人達、歩く電卓としてでは恵まれない人達から歩く電卓を超えたものが出てくる。
2013/5/19