塗り絵の絵

市場開拓(特定セグメント)も最終段階にさしかかると、実務の主体をマーケティングから営業部隊に移管し始める。マーケティングとしてはいつまでも市場開拓ということで、業務主体として留まりたくない。始まったばかりのものにつきもののごちゃごちゃや固まりきらないことも多い。それでも、日常の営業活動として処理できるよう整理して、できるだけ早く営業部隊に引き継ぎたい。面倒なことを営業部隊に押し付けようということではない。マーケティングとしては一日も早く次の市場セグメントの開拓にリソースを振り向けなければならない。
市場開拓の試みが全て成功するわけではない。マーケティングのチャレンジの多くは実を結ばず、この条件や状態ではこれ以上時間もリソースも割けない、割くことに価値を見いだせないという判断で引くことも多い。そのため、出来る限りの情報を集め、分析して、合理的に検討して、チャレンジすべきと結論すれば、できるだけ早くチャレンジして一日も早く結果を出したい。その結果から次のチャレンジが決まってくることも多いので、限られた時間とリソースを最大活用しなければという一種の強迫観念がある。
市場開拓を試みる価値のあるセグメントを見つけるために、そのセグメントを知っている社内外人達から情報を引き出す作業を繰り返す。社として、組織として充当できるリソースは限られているから、できることは大まか決まっている。できることしかできないが、やりようによっては天と地ほどの差がでる。
組織として、またメンバーの一人ひとりができることを機能分解して、それを市場開拓という目的に合わせていかに有機的に組み合わせるか。組み合わせて、組織としての最大限の能力をどう引き出すかという視点と、したい、しなければならない、なしではすまし得ないあれやこれやプロセス、そのプロセスを任せる人材の癖を考えて思考実験を繰り返す。
新市場開拓を担当するマーケティングには定型化し難い煩雑な業務がつきものだが、その最たるものが思考実験になる。分かっている限りの知識と情報、あまりに大雑把なデータもあれば、特定の領域だけには処理に困るほど細かなデータもある。手の内の使えるものを使って雑な仮説しての定性モデルを組み上げる。そこには確かなものはほとんどなにもない。その、自分でも半信半疑というより、自分でもロジックの欠陥に気がついている仮説をもって社内外のこれはと思う人達にぶつけて、視点の欠落、ロジックの欠陥、さらにはそれらを埋め合わせる何かを探しだそうとする。
視点の欠落もロジックの欠陥も完全になくなりはしない。市場開拓の完璧なモデルなどあろうはずがない。市場は常に変わっているし、市場関係者も、その相互の関係も、市場が乗っている市場、さらのその下の市場も動き続けている。本質的にあやふやさから逃げようのないなかで、ここまでくれば後は市場にでて仮説のモデルがどこまで機能するかを検証するしかないというところまで辿り着くのが最初の到達目標地点になる。市場に出てモデルのどこかに致命的なロジックの欠陥がないか?、あたかも自分で作った構築物を自分が疑って、破壊するような作業を繰り返してモデルの再構築を繰り返し、精緻化を図る。
仮説のモデルをもって市場にでるまで行けずに、途中で放棄、中断せざるを得ないことも多い。視点を市場という外でなく、内に変えることも頻繁に起きる。製品やそのコアだけ取り出して、パッケージの変更からプレーヤの組合わせを変えて、どのセグメントであれば開拓し得るのか?まるで双六で“ふりだし”に戻ってしまうように最初の試行錯誤からの作業再開は日常茶飯事になる。
試行錯誤と思考実験の中毒症状が悪化してゆくなかで人の能力について興味深い特性に気がついたような気がする。全て知っている人などいるわけもなく、誰も彼もが自分の立っている位置から見える景色を見て、それを解釈して、知識としてきている。マーケティングとしては、情報に紛れ込むノイズを最低限にしたい。情報は多いがノイズもそれ以上の方々から頂戴する情報はノイズの除去に四苦八苦することがある。そのためノイズが少なく整理された情報を提供してくださる方々は貴重な、しばし特別な存在になる。整理された情報を提供してくださる方々の多くが人間的にも立派で、間違いのない仕事をされる有能な人達であることが多い。社内での信望も厚く、将来的には社を背負って立たれる人材に見える。
多少の癖はあっても立派な方々なのだが、そのような方々に限って、一見とりとめのない、つかみどころのないとも言える試行錯誤や思考実験を生理的に受け付けない。紆余曲折あったにして、やることもやり方も、その結果もおおよそ分かっていることににしか興味が無いというか、思考の対象としようとしない。子供の頃から与えれた課題を、教えられた回答方法で、さっさと処理することに能力を磨き上げてきたのだろう。そこにはっきりした課題があって、その課題の解決方法もいくつかあって、そのいずれかの方法をさっさと選んでか、組み合わせて、計画通りにことが運んで、一件落着という仕事というか、もうその人達の人生に近いと言ってもいいようなものがある。
どこまで行ってもあやふやさが残るという以上に、あやふやだからこそ生きて行ける変なヤツらが、海のものとも山のものともつかないものから何かの規則性なりを見つけ出して。。。のようなことなど想像もしたことがない。想像の範囲からかなり外れているからだろうが、そのようなことに関与することが精神的に受け入れられない。
マーケティングとしては、常に限られた情報から試行錯誤を繰り返し、怪しいモデルを構築し、思考実験と市場での確認作業を通して、次の事業展開の“絵”を描きあげなければならない。個々の作業が定型化していないわけではないが、定型化した作業の縁はぼやけていてどこまでが定型化しているのかという議論に意味のない世界にいる。そこにいる、いて欲しい人材、そうでなければいない方がいいという人材は、塗り絵に飽きたらずいうより、塗り絵の制限に嫌気がさして自分で絵を書かねばと思う人達だと言える。
決まったことを決まったようにきちんと処理してゆく有能な小官吏のような立派な人達、塗り絵の上手な人達がいれば、今日の、明日の業務から組織から国レベルの問題もなにもかも間違いなくそつなくことが進んで行くだろう。
ただ、今までの自然な延長線ではあり得ないところで、ろくな指針もなしで、それでも明日の社会の、組織の、個人の集合体としてあらざるを得ない絵をまっさらなキャンバスに描く人達がいなければ、明日の塗り絵がでてこない。いくら塗り絵が上手になっても、所詮塗り絵屋で絵は描けない。本当に欲しいのは絵を描きあげるVisionary。
2013/6/16