名は体を表して欲しい

故事ことわざの常で、それが今日の社会や文化、価値観を順当に言い表しているか、いまや“いた”という過去形に過ぎないのかは、使う人が判断するしかない。相反することを言っているものもあるから、ときと場合や状況に応じて上手に使い分ける知識と知恵が求められる。
数ある故事ことわざのなかに、「名は体を表す」というのがある。この故事ことわざには、少なくとも今日の社会を見る限り、死語の感がある。表題のようにあって欲しいというかたちに書きなおさなければならない。不勉強のため、いつの頃から言い始められたのか知らないが、言い始められた頃と今日との間に、社会や人に思い大きな違いがあるとも思えない。そう考えると、言い始められた当時においても事実を言っているのではなく、欲しいという素朴な願望のようなものを言い表したに過ぎなかったのではないか。もともとは素朴な願望だったものが後世の人によって、あるべき姿、あるはずだとされて故事ことわざにまで昇華され、今日にまで言い伝えられているのだろうと想像している。
実体としての物にも、物理的実体としては存在しない人間の思考の産物にも、モノとして名前を付けないと、記憶し難いし、意思の疎通にも困る。それで、なにかあれば名前をつける、付けざるを得ない。モノがあって名前がある。記憶と意思の疎通の実利がそれを必要とする。
名と体の間に起きかねない齟齬−名が体を表さない問題は、その名前で呼ばれるモノが知的思考能力を持って自ら体を表す名を、自らこう名乗ろうというのではないことから起きる。名前は、モノではない誰かがその誰かや関係者の良識と教養、志向や嗜好、希望や欲に従って、モノ(体)に関係なく付けられる。そこには社会や文化的な規制は働くが、モノには関係なく、誰かが勝手に名前をつける。つけらる側のモノの意思や希望−もし、あったとして、それを表明できるとしてのことだが−に配慮されることはない。
随分前だが、名と体のひっくり返りの笑えないエピソード(うろ覚えになってしまったが)を新聞かなにかで読んだ。東京に赴任したある外国人夫婦が犬猫好きで、ペットとして買ってきた。ペットの犬には“ネコ”という名前を、猫には“イヌ”という名前をつけた。いたずら半分だったのだろうが、その名前のせいで、まだ幼児だった子供が犬と猫、“イヌ”と“ネコ”の関係を理解できない。家で犬を“ネコ”と呼び、猫を”イヌ“と呼んでいるので、街で犬を見れば、それを”ネコ”と呼ぶ。猫を見れば“イヌ”になる。子供にとっては大変な混乱だったろうが、ことは、一人の子供の犬と猫の種としての名称とペットの名前の間の混乱でしかない。
似たようなことを翻訳で経験したことがある。日本のある日曜衛生用品メーカが“ゴキブリキャッチ”という商品名の英文カタログを作りたいという。日本語のカタログは一目見て、英文カタログのソース資料には使えないのが分かった。浮ついたキャッチワードの氾濫で消費者に何を訴求したいのか分からない。書いたご本人に聞いても書いてある言葉をオオムのように繰り返すだけで、使っている言葉や句が意味していることの説明すら得られない。カタログを作成するには、類似製品が消費者にどのような訴求をしているかも調べなければならない。そのためにも、まず“ゴキブリキャッチ”なる製品の仕様書を読んで基本的な機能を把握することから始めた。仕様書を読んで、たまげた。 “ゴキブリキャッチ”なる、簡便な家電製品、実はゴキブリが嫌う超音波の類を発生してゴキブリを追い払うものだった。商品名は、ゴキブリをキャッチ=捉えるなのだが、モノとしてはゴキブリを追い払う。どうしたものかと考えたが妙案が浮かばない。取扱説明書の類なら、多少はダラダラ書いて“名が体を表わさない”のをごまかすことも可能だが、カタログは消費者に一目で利点を訴えるシンプルさが必須。製品の機能から“ゴキブリキャッチ”の“キャッチ”を日本語で、まず追い払うという意味の言葉に換えて、それに合わせて英語の名称も考えた方がいいのではとクライアントに伝えた。返ってきた返事が情けない。「“キャッチ”はカタカナでキャッチなんでキャッチでいいんです。」と言う。「もう、ゴキブリキャッチで登録商標までとってしまってます。」 商品名は変えられない。登録商標といっても日本国内だけの話のはずなので、英文名は和名の“ゴキブリキャッチ”から離れて、「名は体を表す」英語での商品名にしたらどうかと提案したが、“キャッチ”でいいんだという一点張りで、受け入れられなかった。何を話してもしょうがない、ゴキブリを追い払うゴキブリ捕捉器という訳の分からない製品のカタログを書き上げた。
高度成長期以降、日本が世界に近くなった。当然のこととして外国語を使う機会も増えつづけている。一昔前だったら無理してでも日本語に翻訳しかねなかったが、あまりに多くなりすぎたし、面倒だということなのだろう、外国語の発音をカタカナ表記してすませることが多くなった。目に見えてカタカナ表記が増えた。元々はきちんとした日本語なのに、アクセントでもつける目的からか、わざわざカタカナ表記にしたものも目にする。なかには出自を想像し得ないほど日本語を捩ってカタカナにしたり、日本語と外国語をごった煮のようにしてカタカナで表記したものに遭遇する。カタカナの名前を聞いても、読んでも、言語としてのルーツというか語源の痕跡の見当がつかない。そのため、名前が何を意味しているのか想像もできない。名が体を表したのは多少なりとも歴史上のことで、今や、体を表した名を見つけるのに苦労する時代になった。知っている人に聞いて、なるほどと思うこともないわけではないが、命名した人の知性や教養を疑わせるものが多い。飛んだ言葉でキャッチワードのつもりだろうが、聞いてピンとこない、あるいは体からあまりにも遊離している名はキャッチワードの用をなさないと思うのだが。もっとも流行り言葉のじゃれあいのような業界で録を食んでいる人達、その禄を提供している人達やそこに生活の重心がある人達にはそれはそれでいいのだろう。ただ、名付けされたモノが物のうちはいいが、それが人や文化を背負った組織となると、それでいいのだろういうわけにもゆかなくなる。
言葉は文化の基本に位置するもので、その定義があやふやになれば、またその使い方が雑になれば、必然として文化そのものが荒れて怪しくなる。「名は体を表わさない」時代になってしまったが、多少でも「名は体を表す」に戻さないと日本という国の文化までが軽薄形骸化してゆく。文化が傷んでゆくということは、その今の文化を構成し、後世に伝えてゆく今の人達の精神生活が傷んでいる、傷んでゆくことに他ならない。
2013/03/24