三権分立

三権分立をはじめて聞いたのは中学校の社会の授業だったから、随分昔の話になる。教科書の記述はつまらない。聞き入る魅力のある授業でもなし、まじめに先生の話を聞くことはなかった。その頃、多少の刺激を求めて高校生の参考書を買ってきて読んでいた。社会人になって、その頃何を思っていたかを思い浮かべていた自分を、今になって振り返ることがある。そこには、そんな絵に描いたような堅牢な三角形が本当にあるのかと疑いの目で見ていた自分がいた。中学の頃からだから同じことを随分長い間考えてきたことになる。考えるといっても、法学や社会学の專門家でもなし、ただ漠然とでしかないが、こうでも考えなければ辻褄が合わない、こうしなければ、こうすればより民主的な社会を構築できるのではないか、しなければならないのではないかと考えてきた。
Googleで“三権分立”と入力してサーチするとトップに分かり易いサイトが出てくる。そのサイトのurl(下記)からの想像だが、公的機関の公式説明-簡潔な文章に分かり易い説明図-が掲載されている。
http://www.shugiin.go.jp/itdb_annai.nsf/html/statics/kokkai/kokkai_sankenbunritsu.htm
文章の部分を引用させて頂く。「日本国憲法は、国会、内閣、裁判所の三つの独立した機関が相互に抑制し合い、バランスを保つことにより、権力の濫用を防ぎ、国民の権利と自由を保障する「三権分立」の原則を定めています。」 さっと読む限り、誠にもっとも、何の異論もあり得ようがない。戦後日本が手にした世界に誇る憲法がそこにある。ところがちょっと考えると欠陥(欠陥以外に適当な言葉が見つからない)があることに気づく。完璧を装ったまやかしというかごまかしがある。
最大の、そして根幹のところの、ありようとしての欠陥として、行政府(内閣)も司法府(裁判所)も選挙を通して国民から直接の信任を受けていないことがある。民主主義が国民の意思や主張の反映から始まることを考えれば、三権が同じ強さで分離独立し相互に抑制しあうというのは欠陥という以上に民主主義の視点からみれば、まやかしかごまかし以外のなにものでもない。国民が直接選挙で選出したのは立法府(国会)だけで、他のニ権、行政府(内閣)は立法府(国会)を経由した間接、司法府(裁判所)に至っては立法府から行政府、さらに行政府からという間接の間接になる。
議院内閣制では、行政府は立法府の一部の集団=政権党(最大議席を擁する政党)内から互選によって選出された議員によって構成される。国民の選挙によって選出される米国型の大統領と大統領によって構築される行政府とは違って、日本の行政府(内閣)は、国民の側から見れば立法府(国会)を経由した間接的な権力の行使に留められている。政権政党の党首が自動的に内閣総理大臣として選出される。多くの人達が素朴に、気がついていないのだろうが、政権政党の党首の選出は、あくまでも党内の互選か選挙に過ぎず、公職選挙法による規制を受けない。極端にいえば一政党内(連立であれば複数になるが)の人事ででしかない。そのため買収でも利権誘導でもなんでもありということになる。
このなんでもありの互選から構築された行政府(内閣)は、その存立の正当性は立法府(国会)の政権政党にある。この二つの権力のありようからして、慣れ合いが避けられない。そもそも慣れ合い、議員間の利益のぶつかり合いと調整の過程から選出され、生まれたのが行政府(内閣)なのだから、ニ権力の分離や独立なぞあろうはずがない。そこでは抑制が働かないのがフツーで、教科書や先にあげたサイトに書いてあるように働くことの方が稀だろう。
他国のことを引き合いに出しての比較をしてもしょうがないのだが、米国の大統領制のもとでは立法権(議会)と行政権(大統領府)は、それぞれ別個に国民による選挙で選出され、互いに厳格に独立している。この体制のもとでは、相互の抑制均衡が厳密に働くべくして働く。大統領が所属する政党と議会の過半数の議席を擁する政党が異なれば、大統領府として議会との政治折衝に時間と労力を割かなければならないし、妥協も強いられる。行政が麻痺しかねないことすらあるだろう。
人間社会の常で、議院内閣制にも大統領制にもそれぞれ優点もあれば欠点もある。ここでは、結果としての政治と行政においてどちらが優れていて、どちらが劣っているかという議論は意味をなさない。戦後半世紀以上経った今、日本人が民主主義の原点に帰って社会はどうあるべきかを真摯に考える、考えなければならないときが来たように思う。ここで最も重要な視点は、結果やその結果を生みだす効率や生産性の問題ではない。民主主義をより民主主義たるものに推し進めて行くには根源的にどちらを選択すべきかという絶対価値のありようの問題になる。民主主義を思えば選択に迷いが生じる可能性はない。首相でも大統領でも、極端にいえば名称はどうでもいいが、行政府(内閣)の長は国民による直接選挙で選出されねばならない。もし、それぞれ独立した選挙によって、行政府(内閣)の政党が立法府(国会)の最大政党と異なったとしても、それは国民の選択であって、最終的な責任も結果としての成果、あるいは不利益も行政府にも立法府にもあるわけではなく、選挙を通じて信任した国民にある−これが民主主義の民主主義たるものだろう。
現行の三権分立(どこまでその名に恥じないかは疑問だが)では、司法府(裁判所)が行政府(内閣)の支配を受けることを避けられない。最近、一高裁が先の衆議院選挙を違憲、無効との判決を下したが、これを持ってして司法府(裁判所)が分立している、今までも分立していたと思う人もいないだろう。歴史的にみれば、司法府は行政府の都合に合わせて法を解釈(曲解)するのを、その役どころとしてきた。現在は、国会議員選挙に合わせて最高裁判所の裁判官の信任投票(国民審査)が、唯一国民に与えられた司法(裁判所)に対する信任権利行使の機会になっている。信任を問われている裁判官の経歴などを新聞などで知ることはできるが、表面的な事柄に限られている。
最高裁判所の裁判官も立候補資格を規定して広く法曹界から候補者として立候補できるようにして、国民の投票によって信任されるようにすべきだ。選挙ともなれば、憲法問題から一票の格差の問題、環境問題や防外交問題、外国人労働者や移民について現行法を自分はどのように解釈し、どのような判決を下してきたか。。。国民に訴えざるを得なくなる。司法府が行政府から独立した文字通りの三権分立を言うのであれば、これ以外の方法はない。これが民主主義ってもんだろう。
三権分立をその名の通り機能するものにするには、三権とも国民による直接選挙にするしかない。国民がその負担に耐える良識に欠けるとしても、するしかない。自分達の知識や良識の欠如が招く不利益は自分達が自分達にしでかしたことで、甘受するしかいない。甘受しながら、間違いを犯しながらも国民として成長してゆく。その先に、今までよりはちょっとよくなった、より民主的な社会を築ける可能性がでてくる。
憲法九条を変えれば、産軍共同体に巨大な利権が転がり込む。選挙制度を変えたところで、利権と呼べる利権は生まれないだろう。そのせいだろうが、憲法九条の話は聞こえてくるが、選挙制度の変えなければという話は聞いたことがない。
2013/3/32