情報処理が進化して

コンピュータのハードウェアが加速的に強力に、安価になったことが全てを変える基盤を提供してきた。これからも今まで以上の速度で従来の常識では想像もつかなかった分野まで変えてゆくだろう。強力なハードウェアのお陰で、従来の日常業務や市民生活で使用されていた能力のコンピュータシステムでは処理時間がかかりすぎて実用化できなかったソフトウェア(アルゴリズム)がいくらでも使えるようになった。お蔵入りされていたアルゴリズムが陽の目をみて、ちょっと前までは実行し得ないとはなから諦めてきたアルゴリズムの実用化が加速された。
コンピュータシステムが日常業務に導入された当初は、ハードウェアの能力がまだまだ限られていた。その限られた能力で実行可能なソフトウェアしか使用できなかった。そのため、人がコンピュータを使うというより、コンピュータの能力の限界に人が合わせなければならなかった。コンピュータシステムを構築するエンジニアリング段階は言うに及ばず、コンピュータシステムを日常業務でただ操作するだけでも、それなりの知識と訓練が必須だった。
コンピュータシステムの進化が、市井のフツーの人達が日常生活でコンピュータを使っていると気がつくこともなく、毎日、朝から晩まで何らかのかたちでコンピュータシステムを使っている時代をもたらした。業務としてだけではなく、フツーの人達のフツーの毎日がコンピュータシステムのよって支えられている社会になった。
家の中を見渡しても隠れたコンピュータ、一般的にイメージしているコンピュータとしての顔を持たない、ただの日常の家電製品の顔をしたコンピュータに囲まれている。テレビ、エアコン、電話から炊飯器やオーブン、洗濯機など情報を処理するCPUと状況に応じた自動動作を可能にするアルゴリズムが格納されたメモリ。。。日常生活を支えている電気、水道、ガス、電車をはじめとした移動手段などのインフラでコンピュータによる制御がないものはない。
コンピュータシステムが進化して人工知能の構築までが急速に進められた。本来人間が頭脳を使って、ああだの、こうだの考え、情報を収集して、比較し、分析し、選択し。。。の繁雑な過程をコンピュータシステムで置き換えてきた。それも、コンピュータシステムの黎明期のようなコンピュータ、コンピュータしたものではなく、使っている人がコンピュータを使っていることに気が付かない、あって当たり前になってしまった快適な日常生活を実現する基盤として実用化されてきた。
人間の頭脳労働のたとえ一部でもまかなうようなコンピュータシステムがなかった時代には、それぞれの人が己の個人としての情報処理能力によってしか情報を処理できなかった。それがフツーの仕事で生活だった。ところが、今や、人では不可能で、コンピュータシステムによってしか処理し得ない情報の収集、整理から比較、分析、それに必要な繁雑な数学的処理などが人手を介さずにコンピュータシステムによって自動的に処理される。蒸気機関は人を肉体労働から解放したが、コンピュータシステムは人を頭脳労働から、高度で繁雑な数学的処理から解放した。
頭脳労働のうちコンピュータで扱える-数学的記述が可能な頭脳労働であれば、人の関与が不要になった。可能にするために、コンピュータシステムも数学も進化して可能な領域を拡大し続けている。システムの中でどのような処理がされているのか、されるはずなのかを理解しているのは処理システムの中核を成すアルゴリズムを開発した人とシステムを構築した人達だけに限られる。これはコンピュータシステムがどのように使い易いものになったとしても変わらない。
ここから必然として悲喜劇が起きる。コンピュータシステムがどのような処理をしているのかについて全く、一切合切なにも知らなくても、もっと言えば、自分がコンピュータシステムを使っていることにすら気がつくことなく、ただ、“何かのシステムが”が即してきたことにただ機械的に反応すれば処理が完了する。これによって、自分がいったい何の処理をしているのか具体的に何も知らなくても業務が遂行している、できているという進化?退化?が起きている。 システムが出力した結果が何を意味しているのかすら考える、最小限妥当な結論なのかどうかチェックする習慣すら失せ、出力をまるでコンピュータシステムという教祖から頂いたお告げに対するように盲目的に受け入れるだけの人達を生み出した。それは、あたかも“おまかせ全自動”のような人に優しいシステムで、作業者は決められたウィンドウやダイヤログに決められた入力をするだけ、するだけしか許されない。そして何をどのように処理したのか分からないが妥当な出力が与えられる。
なぜ、そのような出力なのかと、多少なりともまともな人が尋ねても、システムの結果がこうなんですと言うだけで、なぜこうなったのかの説明を求めても、表面的な答えすら得ようがない。自分で考え、判断することを許されていない下級官吏の口癖“決まりですから”という事務的な対応、歴史的に忌み嫌われ、蔑視の対象ででしかなかった、が誰にとっても当たり前の社会が出現した。
コンピュータシステムが進化し、人の手には負えない複雑な数学的な処理から人間を解放してくれた。お陰で何をしているのかについてなにも知らない人でも、一昔前には想像もできなかった生産性を誇る、豊な社会が出現した。若いとき勉強したんだけど、使わないから忘れてしまったというのとは違う。勉強したことないだけではなく、そもそもそのような勉強があることすら知らない人達からも十分な生産性を引き出せる社会になった。
その生産性を誇る社会が実は人という種にとってとんでもない副作用をもっていることがはっきりしてきた。生物生理の必然として、使わない身体機能は萎縮し退化してゆく。脳も身体機能の一つ。コンピュータシステムが便利な時代をもたらしたが、その便利な時代が人間の人間たる所以の情報処理や論理構成。。。などに必須の脳の能力の低下を、使う側の人達にもたらしている。おまかせ全自動のような市井の人に便利なコンピュータシステムを開発する人達−コンピュータシステムが何をしているのか理解し得る人達と、便利なコンピュータシステムを、それが何をしているのか問うてもしょうがない立場に置かれた、ただ信じて使うだけの人達の乖離が益々大きくなる。
社会は圧倒的多くの使う側の人たちで構成されているのであって、作る側の一部の人達によって構成されているわけではない。社会としての基本的なありようの問題にまで発展するのに、もうたいした時間はかからないだろう。
2013/4/7