文化としての言葉(改版1)

若いときからその毛はあったが歳のせいもあって益々世事に疎くなった。聞いても何を言われているのか、聞いたことが何かの名前なのかなんなのか見当すらつかないことが多くなった。失礼な言い方になりかねないので気になるが、ある種?の人たちの話を聞くと、何かの固有名詞なのか、はたまた流行言葉の感嘆詞なのかわからないのがポンポン出てくる。なかには日本語なのか、英語なのか何語なのか分からないのすらある。初耳でも、漢字で書かれていて、その漢字をうまく想像できれば、漢字の本来の意味から順当に考えて何を言っているのか見当がつきそうなものなのだが、しばし、これも怪しい。あまりに軽佻な(失礼?)語呂合わせに過ぎて、新語を作った人、ご本人は悦にいってるのかもしれないが、良識を疑うものすらある。言葉は生き物、時代の歩調に合わせて、あるいは時代の変化を映す鏡のなかの像ようなたちで変わってゆくもの、偉い学者さんやお役人が、こうじゃなければいけないって規制するものではない。言葉は、よくも悪くも文化そのもので、みんなの日常生活が知的であれば、言葉もより知的な方に、凡俗であれば俗な表現が豊になる方に進(変)化する。ただ、はっきりしているのは、整合だった文法体系に多彩な表現を可能にする豊富な語彙があってはじめて文化と呼べる文化、誇れる文化を築ける可能性がある。
人は言葉を使って記憶し、その記憶を参考にして言葉を使って考える。簡単な例をひとつあげておく。色、赤色や黄色という色も、個々の色に名前がないと覚えられない。自然の色のなかには、青でもないし、緑でもないも灰色でもない、なんとも名づけ難い色もある。自然とそうなったのか分からないが、その色の羽根を持った鳥の名前や花の名前を色の名前としたものがある。いずれにしても、ある色を示す共通の理解の色の名前がないと、覚えられないし、誰にもその色を言葉で伝えらない。人は、言葉がないと表層的なことまでしか考えられないし、たとえ考えたとしても、共通の理解の言葉がなければ考えたことを相手に伝えられない。この簡単な例から、言葉は文化そのものでもあり、文化を媒介するものといえる。繰り返すが、人は言葉を使って考える。ここから、その考える人の、あるいは人たちの個々の言葉の定義が曖昧だったり、一つの言葉に複数の互いに相容れない、あるいは無関係な意味があると、その言葉を使って考えた結果も曖昧であらざるを得なくなる。思索にはできる限り厳密に定義された、豊富な語彙が必須となる。
ここで、思索に耐え得る言葉と時代の変化、生活や環境、状況の変化に対応して変わってゆく言葉の間に解決不可能な問題がある。歴史的にも精査され尽くして厳密に定義された言葉ではなく、流行語のような、うつろな言葉を使って果たして哲学などの人文科学が成り立ちうるだろうか?蛮勇を超えた勇気をもってしても、この問いに“Yes“とは答えられない。今、ここに、歴史ではなく今を思索する真っ当な哲学者がいたとする。彼(女)は、はたして歴史的に厳密に定義され尽くした言葉のみを、その言葉が本来的の持っている定義に従って、言葉を使って今を思索し得るだろうか?今は常に変わってゆくもので、歴史のように変化しない過去の事実とは違うことを思えば、答えは“No”しかあり得ない。今、目の前で起きていることの多くが、移ろいやすい、一時のはやりに過ぎないことも多い。だが、それらを無視しては、今を鷲掴みにして思索することは不可能だろう。
厳密に定義され、ときの流れや時代の変化から独立した言葉は、その多くが極端な言い方をすれば、今の文化に至るまでに経過してきた一つの文化遺産だ。(なかには使われなくなった死語もある。死語ともなれば、その意味にも使われ方にも時代の変化による影響もない。)かつての文化の基礎だった言葉としての文化遺産、その文化遺産を文化(慣習)として今も引き継いで使い続けているが、それだけで今を思索することも語ることも不可能だろう。新しく生まれた言葉だけではなく、同じ言葉でも時代によって意味が違う、適用される範囲や分野が違っている。これらの違いは思索に耐え得る言葉に必須の定義の厳密性を崩壊する。今を生きる−今を見て、明日を考えて、何かを決めてゆく。その決めてゆくための基礎を構築する厳密に定義された言葉を使った思索?歴史文献の延長線のような思索ではない、今の思索には決定的な今を表す言葉が足りない。
文化遺産(慣習)として引き継いだ、時代とともに変わってゆく言葉−定義が変わって行くはずの言葉、それに今を掴みとる、表しえる言葉や思考、今の社会のありようを顕在化し得る新しい言葉や定義。何のために、どこをどこまで、どうやって組み合わせて何を思索するのか、できるのか?どこにも誰にも確たる答えはない。何時の時代にもこの模索からその時代の文化が生まれて、それが次の世代に最近の文化遺産として引き継がれてゆく。氾濫する言葉の乱雑さに右往左往しながら、はてさて、今、生まれようとしている文化が引き継いでもらう価値のある文化遺産なのかが心配になるが。巷の一私人の余計な心配に過ぎないはずとは思いつつ。
2014/12/7