一人称の人達

相手がどう聞いていようが、聞いていなかろうが、興味を持っているかどうかなど一向に気にすることなく自分の話をしてくる人達がいる。どの時代にも、どこにもいたし、いるとは思うが、あるドイツの会社で働いた時ほど、この類の人の群れに遭遇したことはない。国民性とか所属する社会の文化以上に個人の性格なり自制の方の影響が強いとは思うのだが、その会社で関係した人達のほとんどから、強弱の差はあっても、一方的な視点での話を聞かされた。一人や二人ではないことから、個人としての性格など以上に、その会社の文化なのか、その地方の文化なのか、あるいはドイツの国民性なのか、ドイツ民族の民族性なのかもしれないと思っている。
仕事を進めるために、どうしてもドイツ本社(そこで働いている人達)から情報なり知識なりを貰わなければならない。貰う側が日本と米国の企業で働いてきた経験から、英語でのやりとりは言葉もスタイルも米国流になってしまうのを避けられない。聞き方、問い合わせ方にも問題があったかもしれないとも思っている。思ってはいるが、あまりに誰も彼もが、誰に対しても同じように画一的な条件を前提とした一方的な話し方をすることから、問題の根源はこちら側よりあちら側にあると考えている。
その会社では、大学卒の人の名刺には“学士”に相当する尊称(Bachelor)が記載されていたし、日常的に姓の前に肩書きをつけて呼び合うのにもちょっと驚いた。あちこちで一日中Doctor xxx、Doctor yyyというのが聞こえる。たかだか従業員二千人程度専業メーカだったが、ドイツ名門と言われた会社の一事業部なので博士も多いのだろう。疲れる会社だった。学歴やその学歴を得る社会層の出身からなのか分からないが日本に比べると日常的に階層化社会にいることを感じさせられた。
階層化された社会で仕事をしていれば、日常的に相手がどういう階層や立場の人で、どのような基礎知識をもっているか、どのようなことを知らなければならない立場にいるかを理解した上で、あるいは想像して話をする習慣がありそうなものなのだが、お会いした方々にはその微塵すらなかった。
こっちも素人じゃない、二十年以上同じ業界でそれなりの企業−企業対企業で比較すれば余程上に位置される企業−で経験を積んできて、かなり突っ込んだ技術的な知識や業界知識も持ちあわせている。ただ、そのドイツの会社特有の個々の技術の詳細やあれやこれやの固有名詞は入社するまで知らなかった。入社後の従業員としての基礎トレーニングも何もないなかで、メールで、電話でそれこそ半分いじめじゃないかという感じでドイツ人なら知ってるはず、その会社のドイツの従業員なら知ってるはずという固有名詞が飛び出してくる。それは、あたかも相手も自分と同じか似たような社会観や価値観、興味や関心から技術的な知識や業界知識にまでを持っていることを前提としているとでも考えなければ説明できない。多少の違いやズレまでは想像できるかもしれないが、自分(達)と大きな違いがあるものを持っている人達がいること、その可能性すら考えつかない人達だとでも思わなければ説明がつかない。
ある日本の大手工作機械メーカにはじめての紹介に行く前に、ドイツからの出張者を中心に、そこまでやるかという念の入れようでプレゼンテーション資料を作成した。微に入り細に入り、手間暇かけて作ったのはいいが、日本の工作機械関係の人達には、そのプレゼンテーションの内容を理解するために必須の(特殊)前提知識がない。ない以上に日本企業同士の協業、競合の関係で獲得してきた、日本では常識となっている技術や知識が邪魔をして、もし説明を理解し得たとしても、ドイツの一メーカが提供するソリューションを奇異なものとしか思えない。
周到に準備してきたプレゼンテーションを考えてきた順序で紹介の話を続けようとするが、工作機械メーカの技術者も経営陣も話についてこれず、もういいやって思っているのが表情から分かる。分かるはずのことがドイツ人には分からない。分からないというより、なぜ、これほどまでに準備してきた万全の説明を、それも世界で最も優れた技術(と思っている)の紹介を聞いて日本人は興味を示さないのかが分からない。
人口一万五千人ちょっとの田舎町に本社があることも災いしているのかもしれない。ただの田舎者なのか、小さな共同体のような社会での経験しかなく、いつも共通の理解や知識のもとに生活してきているせいだろうが、違う社会があること、ありうることを理解できない。同じものを見るにしても、よって立つ視点や立場によっては見えかたも違うなど想像すらできない。彼らのなかの傲慢な人は、自分達を理解できないのは相手の知能が劣っているからだというとんでもない結論を下しかねない。半世紀前に、そのとんでもないのがでてきてヨーロッパ中がめちゃくちゃになった。彼らの言動を見ていると、まるで自分の限られた体験や考えを自分の、一人称のかたちででしか言い表せない子供に似ているところがある。決して悪い人達ではない。純朴で真面目な働き者には違いないのだが、できればあまりお付き合いしたくない。そのあまりに人としての尊厳まで犯しかねない単純化した社会には馴染めなかったし、馴染みたくもないし、また、馴染むべきではないと信じている。
2013/4/28