囚人と刑務官?−自由

2013年4月27日号の英Economist誌に見方によっては興味深いニュースクリップがあった。ニュースクリップの内容はざっと次の通り。
米国メリーランド州の州刑務所に勤務している十三名の女性従業員が収監されているギャングと馴れ合いになり、囚人に携帯電話や薬(ドラッグ?原文ではpills)などを差し入れしていた疑いで告訴された。そのうち四人はギャングのリーダーと寝て(原文ではsleeping)、妊娠までしていた。さらに二人はリーダーの名前の刺青までしていた。メリーランド州のprison service(刑務所担当部署になるのか?)が刑務所をより安全にすべく汚職根絶作業している。
勤務と書いたが原文では、thirteen female prison officersとなっているため、彼女らが刑務官なのか事務員なのか、食堂や清掃関係で働いている人達なのかは分からない。
この記事を読んで、場所は米国だ、さもありなん。この程度のこと無いわけがないないだろうという気がする。もし、これが中南米や発展途上国だったら、この程度のことではたいして騒ぎだてすらしないのでないかと思う。日本を一歩出ればそこが刑務所であろうが教会であろうが、なんでもありの社会がある。あまりにも表に出ない金が多く、法に縛られないというか縛りようのない金がものをいう社会がある。
ただ、この程度のこと、ないはずがない。あるはずだとは思う一方、あってはならない、きちんとしなければ社会が社会としてまっとうにありえないという気持ちが強い。お役所仕事も結構だが、最低限の規律というのか公務に携わる人としてモラルを保ち得る人達と社会にしてゆくにはどうしたらいいのか答えのないことを考えてしまう。
考えていて、ふと全く違う視点もあることに気がついた。刑務側の人として、受刑者に法を犯した便宜を与えれば犯罪になる。今回の短い記事から、次の“もし”の可能性はないと思うが、ことは基本的人権にまで絡むことから、“もし”の可能性は否定できないし、否定すべきではない。
もし、刑務所で働いている女性も受刑者も法を犯していなかったら、純愛とは言わないまでもフツーの男女の関係だったらどうなるのだろう。まさか、刑務所で働いている人と、受刑者の間の色恋沙汰を禁止する法律があるわけでもあるまい。二人の出会いがどこであろうと、それが教会ではなく刑務所だったしても、ことの判断には関係ない。また、一対一ではなく、複数の付き合いがあったとしても、巷のどこにでもあることででしかない。二人のそれぞれ独立した個人と個人の関係、その関係がたとえ世間一般では良識に反するとしたとしても、法に触れない限り、誰にとやかく言われる筋のものでもないし、誰かに何らかの制限をかける権利があるはずもない。
刑務官、一個人として受刑者と親しくなった。運良くか悪くか、その場に居合わせてしまったら、“煩わしい世間の目もあるし、大変だろう。でも、しっかりしろよって”応援までする人がでてきたとしてもおかしくはない。おかしくないどころか、そういう人が白い目で見られることのない社会の方が余程健全な社会ではないか?
人のすること、勢い余ってフツーの人達の許容限度を、ましてやお固い方々の良識とやらをはみ出てしまうこともあるだろう。あったとして、それが社会を、その社会の支えている文化や価値観の根幹を揺るがすようなことでもない限り、寛容な社会であって欲しいと思う。少なくとも目くじらをたてるような社会ではあって欲しくない。
もっと極端に言わせて頂ければ、今まで社会の骨格をなしていた価値観を新しい価値観で塗り替えてきたのが歴史であることを思えば、今の常識を超えたところに次の時代を作り上げる常識の萌芽がある。その萌芽は、しばしば今の常識を逆なでする。逆なでするくらいの萌芽でなければ新しい時代は築けない。そう思うと、なんでもありの緩やかな社会から次の社会が生まれてくる可能性が高いのではないか。
かつての警察国家化した共産圏の世情を皮肉って、“汚職は悪いが、汚職する自由もないような国には住みたくない”というような話を聞いたことがある。最もな話で、誰も否定できないだろう。ことの範疇も種類も違うので、比べるものでもないが、刑務官と受刑者の個人の個人としての自由恋愛、汚職に比べれば幸せなものだろう。
あまりお固いことをいいなさんな、みんな元気でいいね。でも、あまりに目に余ることは困るんだけどという程度の、ある意味だらしのない、人間臭いところで抑えておける社会の方が住みやすいだろう。世間一般のどこにである個人の個人として幸せなものの一つで、ことさら言及するまでのものではないと涼しい顔をした社会でありたい。
2013/5/5