学生の質をとやかく言えるのか?

新聞にある大学の先生が怒っていると書いてあった。随分前の話だが、悪くはなっていてもよくなっている可能性はないと思う。新聞記事によると学生の卒論がそのテーマの決定から内容まで借り物が多くなった。卒論の盗作や代作は昔からなかった訳ではないそうだが、今やWebの進化のおかげで検索の時点から拝借する作業までが楽になって、コピペで持ってきただけのものもあるらしい。
評価する先生方も、卒論の内容がどうも借り物くさいと感じたら、Webで元ネタを探すらしい。学生の卒論に限らず人間社会のほとんどのことが、先人の礎を元としてその先に進めるかでしかないことを考えれば、参考にしているのか?拝借しているのか?行き過ぎがあるにせよ程度の問題の範疇になるのではないかと想像している。
コピペで卒論、先生のご立腹はもっともで反論の余地はないし、また学生の肩を持つ気もないが、事は学生の卒論だ。全く視点の異なるいくつかの経験からそう感じてしまう。経験の例は次の通り。
何年も前の話しになるが産学協同で毎年開催されている画像処理関係のセミナーに産側の一出展者として参加した。開催地が東京の某有名私立大学だったこともあり、その大学の院生の数グループがセミナーで研究成果を発表した。予稿集を見る限りでは、現在でもちょっと信じがたい最先端研究の成果があるように見えた。その研究成果を可能にする新しいアルゴリズムでも開発されたのかと半信半疑ながらかなり期待していた。
気になる発表の時間になる度に出展した自社のシステムをほったらかしてセミナー会場に行って、その度にがっかりして帰って来た。何度かがっかりさせられて後の方の発表では、期待ではなく研究とはお世辞にも呼べない時間つぶしの内容を確認に出かけた。課題設定からして稚拙、研究内容は稚拙さを通り越してサイエンスどうのこうの以前の一般社会常識に照らしてすらどこまで何をできるだろうと、でどこまでなにができたのか、できなかったのかすらはっきりしない発表だった。
しかも、やったことと言えば、ドイツの某画像処理メーカが販売している大学などでは好評のパッケージソフトを使ってアプリケーションを組上げてみたに過ぎなかった。それも、課題設定が稚拙なため、開発した(?)アプリケーションが目的としたことをどこまで実現できたの、残った課題は何なのか。。。という最低限のレベルに達していなかった。いなかったという以前に、課題設定の不備が目的を曖昧にし、研究成果を評価がしようがないという、まるでサークル活動の活動報告の体たらくだった。
発表の最後に決まり文句として決められているかのように、時間が十分でなかったこととサンプル数が極端に少なかったことが言い訳のように付いていた。
セミナー初日の夕方に開かれた懇談会場で長年幹事役をされてきている先生と開催場所の大学の先生に噛み付いた。「画像処理のアルゴリズムでは米国系のメーカが圧倒的に進んでいる。日本メーカとの差は開く一方なので大学などの研究機関に多少の期待をしていた。ところがセミナーでの発表をお聞きした限りでは、あるヨーロッパの画像処理メーカが廉価を武器に販売しているパッケージソフトを使ってこんなことやってみましたということででしかない。そんなことをいくらやっても、いいところパッケージソフトのツール群のベースになっているアルゴリズムはこんな性能があるとか、こんな癖があるとかくらいしか分からない。こんなことでは百年かかっても進んだ米国企業が誇るアルゴリズムに対抗できるようなアルゴリズムも画像処理システムも開発できない。」
両教授のお答えは、「院生は二年のうちに修士課程を修了しなければならないので、実質一年でできることしかできない。」 おいおい、日本の科学技術を将来を背負って立って頂かなければならない方々じゃないのか?お茶を濁したような研究をいくら重ねたところで将来を切り開く価値あるものがでてくるはずがない。日本のなかに留まっていれば、学術研究というままごとをしていても通るかもしれないが、世界じゃ笑いものになる。もう、遠の昔からされているのかもしれない。
もう一つ。
某国立大学の先生がお書きになられた経済史から説き起こした現代経営戦略とそれを遂行するための戦略的組織論が実に分かりやすかった。分かりやすかったというと内容を簡素化した入門書ととられかねないが、入門書の意味で分かりやすいのではない。しっかりした経済史の視点に立って、今日の経営戦略とその組織論に至った歴史的経緯、その経緯を生み出した個々の時点での必然性、また歴史のなかで淘汰されていった技術から組織まで書かれていた。
その本を読むまで整理が出来ないことのいくつもが整理できた感動もあって、親しい友人数名にその本を読むことを勧めた。その本で参考文献として上げられていた何冊かの本のうち一冊は以前より気にしていた本だったので読んでみた。翻訳も出ていたが、しばし翻訳者が一線のビジネスの戦場からは遠いところにいる方だったりするので原書で読んだ。読んでショックを受けた。友人にまで勧めた分かりやすい本の骨格の大部分は全て何年も前に米国の大学教授が書かれた必読書の一冊に上げられている本の内容と同じだった。いや、原書の方がページ数の制限がないこともあってか例も豊富で付帯の部分のロジックまで書かれていた。なんのことはない。分かり易かったのは、実は解説本だったからに過ぎないのではないかと思い当たった。
今までもそこそこ原書で読んできているが、ある、ふとしたときに言い方は変えているものの視点もロジックも何年も前に米国の学者が発表した内容と同じことをいかにも自らのフィールドワークに基づいて語っているのではないかという、そう想像されてもしょうがないのではないかというケースに遭遇した。
どちらの例も非常に特殊な例外的なことなのかもしれないし、それぞれ経緯も事情も異なるだろう。それでも、ここでの問題は、新聞紙上で問題視されている卒論の話ではない。日本の将来を背負って立つ側に、日本を牽引されるお立場にいらっしゃる先生方の問題だ。
2013/6/23