ナショナリティ

日本でフツーの生活をしていればナショナリティという言葉を耳にすることはまずない。六本木や新宿あたりで夜明かしでもするような生活をしなければ、ナショナリティなど言うこともないし、聞くこともない。日本人が日本で日本人社会のなかで生活している限りナショナリティという意識は必要ないし、育たない。ただ、日本にいても海外から来られた方々との初対面のときにどこから来たかという素朴な話になって初めてナショナリティという言葉がでてくる。 日本人にはなんの疑問もない日本という国の国民として、自然にナショナリティとしてジャパニーズという言葉がでてくる。
何度かのアメリカ生活と出張で飛び回る生活をしていたとき、あちこちで色々な人達と出会った。仕事の関係の方々もいれば、エアポートで、メシ屋で、街のどこかで偶然行きあったというだけの人達も多い。こっちの素性を知らない人達の多くが中国人だと思っていた。日本人も中国人も韓国人も外見では区別できない。人口も多いし、世界のどこにでも根を張っている中国人と想像する。
自分が何人かなどと考えたこともない。特別何も考えることなく、自分は日本人であると思っている。ナショナリティを聞かれれば、なにも考えることもなくジャパニーズと答える。ほとんどの日本人にとってナショナリティとはなにかと特別考えることでもないし、考える必要のあるものではない。ところが、海外の方々から“えっ”というナショナリティが返ってくることがある。ナショナリティは意識するものだと教えられる。いまでこそ一つの独立した国になったが、当時、国としては存在していなかった、民族としての存在だったものをナショナリティとして言われると、表面上はスルッと受けた素振りをしているのだが、その主張を真正面から受けなければならないという責任のようなもの、今まで意識していなかったのを後ろめたく思うことを強制されたような気がした。
セルビア、クロアチア、ウクライナ、ラトビアから始まってモンやバスク、クルド、フェニキアあたりまでくるとナショナリティなぞ考えたことのない、考えるなどということすら考えたこともない日本人には荷が重い。日本人のフツーの感覚ではナショナリティとはそのまま国籍の意味ででしかない。彼ら、彼女らのアイデンティティとして国籍ではなく、民族としてのナショナリティがある。そのナショナリティには民族としての誇りがあり、その誇り故に国を否定する響きさえある。ナショナリティの前には国は単なる歴史の異物に近いものとして存在するだけで、まず民族があるという強烈な主張、それもしばし歴史に翻弄されてきた被害者としての主張がある。
そこまでの強烈な民族意識の旗印のようなナショナリティがあるかと思えば、一方にはそのような血を基軸としたナショナリティが雲散霧消しまったというか違うかたちに昇華してしまった人達もいる。人種差別はいつまで経ってもなくらなないが、それでもこの数十年でアメリカが、特に大都市が大きく変わった。地域による違いも大きいが、そこはもうヨーロッパの延長ではなくなった。
ナショナリティの話になると、アメリカ人の中にはアメリカンだといいながら、笑い話のようしながら血にまで遡るのがいる。四分の一はブリティッシュ、八分の一がアイリッシュ、イタリアン、確かチャイニーズとジャマイカも混ざってるって聞いてる。そうだ、ネイティブ・アメリカンの血も入ってる。もしかしたら犬もあるかもという調子。ここまで混血が進むと敢えてナショナリティという意識が希薄になって、どこで生まれて、今どこに住んでいるくらいしか興味がないとさばさばしてしまうのだろう。もう、ごちゃごちゃし過ぎて面倒くさい、血は知らん、ただ、オレはアメリカンだで終わる。
アメリカで生まれて育った。そしてアメリカに住んでいる。だからアメリカンだ。という歴史を置き去りにしてきたナショナリティ。でも、そのナショナリティは常に違うナショナリティを、民族としてのナショナリティを主張する人達とのかかわり合いのなかからしっかりした一つの意識として形成されている。日本人のジャパニーズというのとは自己規定のありようの点で大きく異なる。
否が応でも自らのナショナリティを意思し、誇りとして主張しなければならない人達と、そのようなもの考えたこともない人達の間に社会に対する姿勢や歴史に対する考え方に違いがないはずがない。自分はいったい何なんだというアイデンティティを子供の頃から持ち続け、それを誇りとして生きている人達が造る社会、必然として彼我を峻別する堅牢なものになるだろう。一方自分は、自分達は何なんだという意識をすることなく、する必要もない環境と文化で育ってきた人達なら、ぼやけた輪郭と緩やかな、厳しさを必要としないしなやかな社会を造れるのではないかと期待がある。ナショナリティなぞ気にしたことにない日本人だから安易にそう思うのだろうと思いながらも、その方がいいと思うのだが。
2013/10/10