腐敗する絶対権力を乗り越えて(改定1)

「権力は腐敗しやすく、絶対的な権力は絶対に腐敗する」。原文、“Power tends to corrupt, and absolute power corrupts absolutely.”は十九世紀のイギリスの思想家アクトン卿の名言で、権力の内在的欠陥を端的に表している。権力が権力たらんとする限り、権力自身の能力では腐敗を避けられない。ちょっと俯瞰してみれば、歴史とは権力を持たない側が腐敗する権力の行き過ぎをどう抑制し、どう渡りをつけるかだった。政治、社会の面からみれば、大きな代償と時間をかけて絶対的な権力であるはずの王政を法で規制し、さらには共和制に移行した。
ただ、共和制に移行しても、アクトン卿の名言から逃れられなかった。共和制のもと、人の良心や良識に依存しても権力の濫用、腐敗は避けられなかった。共和制であろうが何制であろうが権力が集中して、絶対権力に近くなれば必ず濫用され腐敗した。それを防ぐべく、権力を複数の組織体に分散し、なおかつその分散した権力が互いに牽制しあう体制を作り上げていった。人治ではなく体制として権力の行き過ぎと腐敗を避ける文化と組織を作り上げていった。
日本国憲法は三権分立をうたっている。Googleで“三権分立”と入力してサーチするとトップに分かり易いサイトが出てくる。サイト(下記url)には、公的機関の公式説明-簡潔な文章に分かり易い説明図-が掲載されている。http://www.shugiin.go.jp/itdb_annai.nsf/html/statics/kokkai/kokkai_sankenbunritsu.htm
文章の部分を引用させて頂く。「日本国憲法は、国会、内閣、裁判所の三つの独立した機関が相互に抑制し合い、バランスを保つことにより、権力の濫用を防ぎ、国民の権利と自由を保障する「三権分立」の原則を定めています。」
三権分立などと面倒なことをせずに権力を一極に集中すれば、意思決定も決定したことの実行も迅速で、責任の所在もはっきりしている。三権分立より権力の一極集中の方がいいと思う人達もいるだろうが、今の日本に、いや世界においてすら単純に一極集中をよしとする人は少ない。これは人々が歴史に学び、権力の一極集中が最終的には不幸を招くことを今や常識として知っているからに他ならない。
この常識、不思議なことに多くの人達が、社会と政治の面に限定されていることに何の違和感も持たない。人々の日常生活の基盤となっている労働の場、企業や組織でこの「権力は腐敗しやすく、絶対的な権力は絶対に腐敗する」が意識され、あるいは問題視されたことがあるのか。寡聞にして知らない。
社会や政治の世界では権力の一極集中は必ず不幸な結果を招くとして許容されない。これが常識になった。では、企業のなかでの権力の一極集中にはそのような弊害がないのか。もし、ないとしたらなぜなのか。もし、弊害があるとしたら、なぜ分権化が進まないのか。そもそも企業において分権化した組織なるものが機能し得るのか。どこまで検討され、どこまで実験され、どのような、たとえ仮にしても常識と呼べるレベルまで共有された理解があるのか。
企業内のことであって、そこは社会や政治からは分離独立して小社会、権力構造をどうのというところではないという主張もあるだろう。もっともらしく聞こえるが、ちょっと考えると説得力がないというより、権力を持った側の詭弁に過ぎないことに気づく。組織の支配形態からみれば、社会や政治と企業組織を区別する理由はない。にもかかわらず、企業内では絶対権力を普通のもの、常識としている。創業社長ともなれば社内においては絶対権力者として君臨するのがフツーだろう。誰もが疑うこともない、それがフツーだと思っている。従業員はその絶対権力の庇護か支配のもとに社員としての存在がある。創業社長ではなく、社長という職業人、役員という職業人であっても社内や組織内では絶対権力者として振る舞うのが常識とされている。
では、その絶対権力、アクトン卿の名言「権力は腐敗しやすく、絶対的な権力は絶対に腐敗する」から自由なのか。 自由であろうはずがないだろう。絶対権力は必ず腐敗する。長期に渡って批判の目にさらされることなく保たれ権力は必ず腐敗して私利私欲に走る。歴史が証明している。にもかかわらず企業内では日本国憲法のような分権による権力の抑制機構もなければというより、抑制を否定する絶対権力者によって支配、支配という言葉に抵抗があるのであれば、経営されている。
絶対権力者が自らの自由を制限する規則なり体制なりをつくるはずがない。自明の理だろう。こうして考えてくると社会の基盤を提供している企業内における勤労者の労働は絶対権力かその類似の体制のもとでなされていることにならないか。“絶対権力は絶対腐敗する。”が一般論としては正しい、あるいは一歩下がって往々にしてあるのであれば、社会の基盤=富の生産現場である企業が腐敗した権力、穏やかに言い換えれば腐敗しやすい権力によって支配されていることにならないか。そのような文化、体制の基では支配される立場に置かれる多くの人々の能力を最大限に活かす社会活動や生産活動などありようもない。今の社会の延長線、その程度までの社会しか作り得ない。
好き嫌いではなく、腐敗しがちな絶対権力による支配という現実がそこにある。その現実を改善する方法、いろいろ考えられ実験されてきたが、未だうまく行ったことがない。改善の可能性は見えない。ということは、今まで腐敗した権力によって企業が経営され、社会が運営され、これから先も何か特別なことで起きない限り似たような状態のままでゆくのか。
社会が大きく変わって、変わる速度も早くなっているように思える。明日の社会のありよう、少なくとも多くの人達の社会生活の基盤を作っている企業や組織の支配形態に進化が求められる。自身の能力では腐敗を避けられない絶対権力による支配(経営)から腐敗し難い支配形態のありよう−歴史的な実験は失敗してきたが、ないはずがない。